熾烈を極めた「吉田茂vs.鳩山一郎」の政権抗争 松野頼三氏が亡くなる直前に明かした「2人の関係」
吉田総理の華々しい経歴
吉田内閣は、片山、芦田両内閣を挟みながら、第5次内閣まで約7年の長期政権となった。その間吉田は、新憲法の発布、朝鮮特需による景気の回復、サンフランシスコ講和条約の締結など、戦後総理としての華々しい経歴を築き上げた。 鳩山の公職追放が解除されたのは、昭和26年8月である。鳩山としては、すぐにでも政権を譲ってもらいたいと考え、河野一郎や三木武吉ら反吉田派の側近も、なんとか鳩山に政権を取らせようと画策したが、吉田側は「そのような約束はない」と突っぱねた。鳩山には、追放解除直前に脳溢血で倒れるという不運もあった。病人に総理大臣はつとまらないという口実を吉田側に与えてしまったからである。 結局、吉田がようやく勇退し、日本民主党を結成した鳩山が政権を取ったのは、昭和29年12月になってからだった。鳩山は、日ソ国交回復、国際連合加入などを実現させたが、すでに病弱であったことから、約2年間の短命政権に終わった。
バカヤロー解散と坊ちゃん政治家
もともと吉田と鳩山は、様々な面で対照的な人間だった。吉田茂の実父は土佐民権派自由党の政治家で、実業界でも活躍した人物である。しかし吉田茂は生後直ぐに、横浜の貿易商吉田健三に引き取られ養子となった。東大法科を卒業し、外務省に入省後、牧野伸顕(当時枢密顧問官)の長女と結婚、外務事務次官、駐伊大使、駐英大使などを歴任した。 吉田のイメージといえば、ワンマン、硬骨・頑固、葉巻や白足袋の貴族趣味というもので、バカヤロー解散(社会党の議員の質問にバカヤローと応えて懲罰にかかった)や、新聞記者にステッキで殴りかかるなど、なにかにつけて独善的で強面の印象が強い。政治的には、いわゆる政党政治家とは対極的な存在であり、自らの政権時には池田勇人や佐藤栄作など、後に「吉田学校」の生徒と呼ばれる官僚出身者を大量に育て上げた。 一方の鳩山一郎は、衆議院議長の父と、共立女子大を創立した母を持つ、純粋な二世政治家で、上流家庭で育ったいわゆる“坊っちゃん政治家”であった。東大卒業後、父の死にともなって東京市議会議員に立候補して政界に入り、大正4年に衆議院議員に初当選する。吉田と違って、陽気で楽天的な人柄で、政治的には生粋の政党人だった。 政権を奪取した鳩山は、吉田とは逆の大衆政治をめざし、公邸や護衛の廃止、公務員と業者のゴルフやマージャンの禁止などを打ち出し、そのため国民の間では“鳩山ブーム”が起こった。また政党人として、昭和30年には保守合同で自由民主党をつくり、初代総裁となって、自民一党体制の「五五年体制」をスタートさせている。