「忙しい時間を過ごすこと」を、ローマの哲人・セネカは批判した…その意外な理由
人生の短さについて
先行きが見えない不透明な時代、「どのように生きればいいのか」と悩んでいる人は多いかもしれません。そんなときは、これまで長いあいだ多くの人に読み継がれてきた古典の言葉に耳をかたむけてみると、充実した人生を送るためのヒントを得られることがあります。 【写真】セネカの肖像 たとえば、イエス・キリストと同じ時代を生き、ローマの皇帝・ネロの家庭教師としても知られ、さまざまな「生き方」にかんする著作を残した哲人・セネカの言葉は、私たちの人生に反省を促してくれます。 セネカの思想について、わかりやすく解説してくれるのが、『ローマの哲人 セネカの言葉』です。國學院大学教授などをつとめた、ドイツ文学の研究者で作家の中野孝次氏(1925~2004年)が、セネカの言葉を噛み砕き、生活実践のためのヒントを与えてくれています。 本書ではたとえば、『人生の短さについて』を取り上げ、セネカの魅力を以下のように解説しています。『ローマの哲人 セネカの言葉』より引用します(読みやすさのため、改行などを編集しています)。なお、冒頭に出てくるパウリヌスは、『人生の短さについて』でセネカが語りかけている相手です。 *** 彼はまずパウリヌスに向かって、君は人生は短い上にそれがなんと早く過ぎ去ることかと歎いているが、人生は短いわけではなく、我々は十分な時間を持っているのだ。ただそれを多くの人は空しく浪費しているだけだとして、それをどんなふうに人々が使っているかの実例を列挙してゆく。 この悪い実例の観察と描写による列挙は、以後セネカの重要な文学手法となるもので、セネカの文章のいきいきした説得力は、この生彩にみちた悪の叙述あるがためと言ってもいいくらいだ。 人生は使い方さえよければ十分に長いが、使い方が悪いゆえに多くの人はそれを短くしている。ある者は貪欲からもっと多くの富を得ようとしてあくせくし、別の者は酒びたりになったり、のらくら暮したりしている。屈辱的な思いをして権力にすり寄ったり、次から次へ新しい仕事に空しくとっついたりしている。 彼らに共通するのは、真に自分に属しているものに頼らず、彼らの権内にない外なるものをあてにし、それに依存していることだ。今を生きないで、未来のよい生活を夢みて今を犠牲にしていることだとして、そういう人間は生きているのではない、ただ生存しているだけだと断定する。 こういうネガティヴな、ダメな生を送る者の正確な観察と描写においてセネカは比類がないが、初めのうちわたしはそれらをうるさいと感じ、飛ばし読みしていた。が、やがてこれあるがためにセネカがポジティヴなものを説くとき、それが輝きだすのだとわかってからは、むしろそれらをこそ丁寧に読むようになった。ここではとうてい全部を紹介しきれないが、関心ある人は『人生の短さについて』(岩波文庫)のその箇所をごらんあれ。実にみごとなものです。 さて、そのように自分の欲望や野心のために寸暇もなく飛びまわっている者、生れついての怠け癖のために空しく生きる者、権力者におもねる者、次から次へ目的を変えて成果を得ない者などの実例を示し、世間の人の多くがいかに自分自身のために時間を使わないかを、セネカは熱っぽく列挙してゆく。セネカの目には具体的にそれらの人間の姿が見えていたにちがいない。そして人がいかに時間というものを空しく使っているかを実証し、納得させた上で、セネカはこう説く。 その原因はどこにあるのか? 君たちはあたかも自分は永久に生きられるかのように今を生きていて、自分のいのちの脆さに思いを致すことは決してない。いかに多くの時間がすでに過ぎ去ったかを意識しない。時間なぞ無尽蔵にあるもののように君たちは時間を浪費している。そうやって君たちがどこの誰かに、あるいは何らかの事に与えているその日が、実は君たちの最後の日であるかもしれないのに。死すべき者のように君たちはすべてを怖れ、不死の者であるかのようにすべてを得ようとしているのだ。(「人生の短さについて」3─4) 義理や欲望や習慣に従って世俗のことにばかりかまけていたら、「一生は、雑事の小節にさへられて、空しく暮れなん」という言葉が「徒然草」にあるが、セネカは兼好よりももっと徹底的に、人が世間の雑事によっていかに時を空しく費やしているかを力強く描写した上で、そういう要約をする。 世間の人はよく、そうやって忙しく立ち働きながら、五十になったら閑暇な生活に入ろうとか、六十になれば公務から解放されるだろうと、未来に期待をかけるが、そんなことを言って事を先送りしている人は、あと自分にどれだけの時間が残っていると思っているのか。「死期は序を待たず」(「徒然草」)であって、君が誰かに与えている今日、何かに捧げている今が、君の最後の日かもしれないのに、とセネカは人間の定命に常なきことを意識させる。 そして、世事にかまけず、己れ自身と向き合う閑暇の時がいかに尊いかを、これまたセネカ得意の同時代の人物たちの実例を列挙して説く。最大の権力を持ち、最高の地位に上った偉大な人たち、たとえば神皇アウグストゥスでさえ、閑暇を求め、閑暇を称え、閑暇は自分のどの幸せにもまさる、とつねに言っていたのを君は知っているだろう、と。 神々が他の誰よりも多くのものを恵んだあの神皇アウグストゥスは、自分のために休息を熱望し、国務から解放されることを願ってやみませんでした。帝の口から洩れる言葉はいつでもまた、自分は閑暇を欲するというこのテーマに戻るのでした。いつかは必ず自分のために生きるのだという、このいかにも甘美ではあるが実現されそうにない慰めにすがって、帝はその劇務に堪えておられたのです。(略)それほどまでに閑暇は帝にとって重要なものであり、現実にはそれを実現できなかったために、想像の中で先取りせられていたのです。すべては自分一個の思いのままであり、人民や諸民族の運命を左右しうるその人物が、いつかその偉大な権勢をふり棄てることができる日のことを、最大の喜びをもって思っていたのです。 (「人生の短さについて」4─2~4) 日々を無自覚に生き、時を惜し気もなく使っている人にはわかるまいが、ちゃんと自覚をもって生きる人は、最大の権力者であるローマ皇帝でさえも、自分の権力や地位や名声などより、自分とともに生きる閑暇を得ることを、人生の最高の幸福としたのだという。 *** 時間の使い方についてなんとも耳が痛い指摘ですが、生活を見直す手助けをしてくれそうな一節です。 【つづき】「「多忙な人間はダメである」…ローマの哲人・セネカがそう語った「納得の理由」」の記事でも、引き続きセネカのおしえについて見ていきます。
学術文庫&選書メチエ編集部