「Unity」普及の立役者・大前広樹が明かすUnity Japanを“卒業”する理由──テクノロジーの最先端からゲーム開発のインフラにまで発展した「Unity」を、今後も提供し続けるための組織改革は「自分が旅立つ」ことで完成する
ゲーム開発者のみならず、ふだんからゲームに触れている人ならば、一度は「Unity」という単語を聞いたことがあるだろう。ゲーム開発を中心に広く用いられているゲームエンジンであり、大手ゲームメーカーの大作から個人制作のインディーゲームまで、多種多様な現場で活躍している。 『Unity』画像・動画ギャラリー 今ではゲーム業界にとってなくてはならない存在になった「Unity」。その日本普及の立役者的存在が、ユニティ・テクノロジーズ・ジャパン(以下、Unity Japan)の立ち上げにも携わった大前広樹氏という人物だ。 大前氏はUnity Japan立ち上げ以前の2010年ごろから日本市場でUnityの普及活動に取り組み、2011年にはUnity Japanの設立にも携わってきた。そして2023年2月にはUnity Japanの代表取締役社長に就任するなど、まさにUnityを日本のゲーム業界へ広めたトップランナーのひとりである。 そんな大前氏だが、2024年2月にUnity Japanの代表取締役を退任。今後は顧問としてUnity Japanのアドバイザー的な立ち位置をとるものの、10年以上にわたってビジネス・技術の両面でリーダーシップをとってきた大前氏の離脱は、Unity Japanにとって小さくない変化と言えるだろう。 では、なぜ大前氏はこのタイミングでUnity Japanを“卒業する”決断を下したのか? そして大前氏が去った後のUnity Japanはどのように変化していくのか? 今回は大前氏のほか、今後のUnity Japanを率いていく上里田勝氏、高橋啓治郎氏、𥱋瀨洋平氏の計4名をお招きし、Unity Japanの展望や、小規模なベンチャーとしてはじまったUnity Japanの発展のストーリーなどをうかがった。 特に貴重なUnity Japan立ち上げ当初のエピソードなども語られているので、ぜひご一読いただきたい。 聞き手/TAITAI、実存 編集/久田晴、竹中プレジデント ■大前氏がUnityを“卒業”するのは「自分が作りたいゲームを作る」ため ──2024年2月にUnity Japanの代表取締役を退任することを発表された大前さんですが、いつ頃からUnityに携わってこられたのでしょうか? 大前広樹氏(以下、大前氏): 13年前の2010年くらいからでしょうか。2011年8月にユニティ・テクノロジーズ・ジャパン(Unity Japan)を設立することになるのですが、その1年くらい前からUnityで仕事をし始めました。 基本はずっと現場監督的な立ち位置で、2023年2月から1年だけ社長職に就いていましたが、この1月末で辞めて、今は顧問という形でアドバイスおじさんをしています(笑)。 ──(笑)。そもそものお話になりますが、大前さんがUnityを辞める理由というのはどういったものなんでしょうか? 大前氏: もともと僕は「iPhoneでゲームを作りたい!」と思ってUnityを使っていたんです。 そのため、もともと働いていたフロム・ソフトウェアを辞めて会社を立ち上げたんですけど、そこではあんまりうまくいきませんでした。その後、いろいろあってUnityの中の人になって「Unityを普及する」活動に取り組むことになります。 そこから13年に渡って、ゲーム開発を縁の下で支える仕事をしていることになるのですが、自分のゲーム開発の現場に対する体験や所感がどんどん古いものになっていく感覚があって……これが辛かったんです。 ──その辛さというのは具体的にどのようなものなのでしょう。 大前氏: Unityの中の人として開発者の方とお話をする際、開発者の方が僕の話を聞いてくれるのは、僕の感覚が彼らが実際にやっていることと、それほど遠くない話をしている……“地続き感”みたいなものがあったからだと思うんです。 でも、長年Unityで活動をしているなかで、実際に今ゲーム開発をやっている人たちと現場にいない自分との温度差が徐々に広がっているのを肌で感じてきて……。正直、ここ数年は「このままずっと続けていくのは難しい」と考えていました。 加えて、僕自身いつかは“ゲームを作る” ことに立ち返り「自分が作りたいゲームを作って世に出したい」と思っていたんですが、ちょっと前に「そろそろかな」という気持ちになったんです。 ──なるほど。「そろそろかな」という気持ちになったのには何かきっかけがあったんでしょうか? 大前氏: 強く意識しはじめたのは、飯野賢治さん【※】が亡くなってからです。 今日この場にもいる𥱋瀨さんに紹介してもらって、飯野さんと初めて直接お目にかかる機会があったんです。でもその時の彼はすごく顔色が悪くて……。大丈夫なのかなと心配していたんですが、その後すぐに訃報が届いてすごくショックでした。 自分が「一緒に仕事をしたい」と思える人たちと仕事する機会を待ち続けてたら、その内にみんないなくなっちゃうかもしれない……。そう思うようになったのが大きいですね。 ──今後の活動について、指針のようなものはあるんでしょうか? 大前氏 まずは会社を作ろうと考えています。「自社で資金調達を行い、自社でゲームを作って販売する」という一番の鬼畜ルートで、10人以下くらいの規模でやっていきたいなと思っています。 僕にはゲーム開発者としての目立った実績がないので、お金を出してくれる人を探そうとかおこがましいことを考える前に、とりあえず自分でいろいろやってみようと。 ■Unity Japanのコアメンバーが揃っての座談会 ──Unityを卒業する大前さんの退任後にUnity Japanを率いていくのが、上里田さん、高橋さん、𥱋瀨さんのお三方というわけですね。Unity Japanではどのような役職に就いているのか、教えていただけますでしょうか。 上里田勝氏(以下、上里田氏): 上里田(あがりだ)勝と申します。Unity Japanは今年で丸5年になります。 「クライアンズパートナー」という営業チームでシニアマネージャーとして、ゲームエンターテイメント部門の営業部門の責任者をやっております。 高橋啓治郎氏(以下、高橋氏): 高橋啓治郎です。2012年の年始にUnity Japanを立ち上げた時のメンバーなので、もう12年になります。 立ち上げ当初は人数も少なかったので「なんでも屋さん」みたいな感じだったんですけど、今はアドボケイトという肩書になりました。ユーザーの皆さんとコミュニケーションを取ってUnityのことを紹介したり、上手な使いかたをお伝えする仕事をしています。 𥱋瀨洋平氏(以下、𥱋瀨氏): 𥱋瀨(やなせ)洋平です。私は2013年入社なので、11年目ですね。 元々はゲームデザイナーなんですけれども、Unityではアドボケイト【※】として、Unityを使ったコンテンツ制作や研究をされている方と一緒にものづくりをするなど、主にコミュニティ活動のお手伝いをさせていただいています。 ──「大前さんが辞める」というお話を聞いたとき、みなさんの反応はどうだったんでしょう? 𥱋瀨氏: 正直、大前さんは「いつかUnityを辞める人だな」と思っていたので、こんなに長くいたのが意外なくらいです。逆に、ようやく大前さんがUnityを出ていけるようになったんだなって思いますね。 高橋氏: どんどん大前さんが辞めにくい立場へと押し上げられていくのを見て、かわいそうだなってずっと思ってたので……(笑)。今回ようやく “卒業” できたのは、喜ばしいというか、我々も祝う気持ちで送り出してあげたい気持ちです。 大前氏: ありがとうございます! 僕は在籍中、いかに高橋さんを辞めさせないかいろいろと頑張ってたけどね……(笑)。 上里田氏: 大前さんが辞めるにあたって、個人的にすごく残念なのが「大前さんと一緒に会社を回れなくなる」ことなんです。 大前さんの話はすごく面白くて、「あぁ、この人が喋るから皆さん信用してくださるんだろうな」というのをすごく感じていました。それがなくなってしまうのは非常に大きい損失というか、替えがきかない人材であると感じていて……今はそれをどう解決するか悩んでいますね。 大前氏: それはすごく光栄です。でも「Unityを使うか否か」という自分の会社の将来に関わる選択については「サービスの価値や信頼」が大きいので、選ばれているのは僕のトークだけが理由ではないと思います。 ──みなさんの話しぶりからすると、むしろ「今までいてくれたことの方がおかしい」と、快く送り出されている雰囲気が感じられます。 高橋氏: 大前さんはもともとクリエイター畑の人ですから、作る側に戻っていくのが自然だと僕は思っています。 𥱋瀨氏: 会社の立ち上げ時から所属していた伊藤周さんがUnityを去ったのも、大前さんとほぼ同じ理由でしたからね。 大前さんはUnityにいる間にもよくゲーム作っては見せてくれていたんですよ。 その時は「いつこのゲームを完成させてリリースするんだろう?」って思いながら見ていたんですけど、さすがにUnity Japanの社長をやっていたらそんな時間ないですよね。今後の大前さんが、どんなゲームを作っていくのかすごく楽しみです。 ──正直なところ、今回の座談会はちょっと変わっているというか……。会社を辞める人を囲んで語らうというのも、なかなかないと思います。 大前氏: そうですね、普通に考えたらなんだこれって感じですよね(笑)。 ■わずか数人でスタートしたUnity Japan、ただしメンバーは強者ぞろい ──それでは、ここからはUnity Japanがどういった形で立ち上がり、現在にいたるのかをお伺いしていきたいと思います。現在のUnity Japanの規模はどのくらいになるのでしょうか? 上里田氏: 全体ではだいたい100人ほどになります。 大前氏: Unityのオフィスは世界中に数多くあって、海外のオフィスは「開発専門」「セールス専門」と、ひとつの分野を専門的にやってるところが多いんですけど……日本(Unity Japan)はほぼすべてを業務として行っています。そういう意味では、結構珍しいタイプのオフィスだと思います。 ──そんな大所帯なUnity Japanですが、会社を立ち上げたときは何人くらいでのスタートだったんでしょうか。 大前氏: いまここにいる高橋さんと僕、それに伊藤周さん【※】と田中洋平さん【※】と豊田信夫さん【※】。この5人が立ち上げメンバーだったと思います。 ──立ち上げ当時はまだ、小規模タイトルや中小スタジオに対してゲームエンジンそのものが普及してない時代だったと耳にしています。 大前氏: そうですね。僕が立ち上げた時は、Unityを使っている中小スタジオはほとんど見られませんでした。たまにちょっと変わった人が使ってる程度で、会社として採用しているところはほとんどなかったと思います。 周りをパッと見てUnityを使っていたのは、『FF11』のメインプログラマーだった宮川さん【※】くらいじゃないかな。Unityのデイビット・ヘルガソン(Devid Helgason)【※】が初めて日本に来た2011年のCEDECで、彼とふたりで講演を実施したのを覚えています。宮川さんは今でもUnity使ってゲームを作ってくれているみたいですね。 ──Unityが来日した背景にはグローバル展開の意図があったかと思いますが、この時期には日本に限らず、色々な国で一気に展開していったんでしょうか? 大前氏: 日中韓は同時に展開したいとは考えていましたね。韓国は日本よりちょっと早い2011年の7月に立ち上がっていて、僕も立ち上げ記念のデベロッパーセミナーでプレゼンしました。 当時のUnityは、それぞれの国でUnityを任せられる人を探していて、日本ではミドルウェアの展開を代理店に頼もうと思っていたらしいんです。 それで、デイビットが初めて日本に来てCEDECに出演することになったんですが、もともと彼らと繋がりがあった僕はデイビットにお願いして、CEDECの前にUnityの勉強会にきてもらったんです。これが日本で初めて開かれたオフィシャルなUnityの勉強会でした。 その勉強会の後にお礼として一緒にご飯に行ったとき、デイビットに「Unityは日本でどうするんですか?」って聞いてみたんです。その場で彼は「どうするかまだ分からないけど、どうすればいいかは分かった気がする」ってニヤニヤしていて。 後日、CEDECの会期中にデイビットと一緒に来ていた、Unityのビジネスディレクターの方から「日本でUnityやらない?」って言われたんです。 ──まさかのお誘いですね。その際にはどうお返事されたんでしょう? 大前氏: 実はその場では一度「嫌です」と断ったんです。ただ、紆余曲折あって「持ち帰って検討します」という煮え切らない返答で濁す形になりました。 当時は会社のパートナーとゲームを作っていて、そのゲームが世に出せなくなりそうで「どうしようか」と悩んでいた時期でした。誘われたことをそのパートナーに相談してみたら「やったらいいんじゃない?」って言われて「じゃあやるか!」と。 ■約半年で売り上げが12倍に。日本がUnityの重要マーケットに ──立ち上げ当時のUnity市場についてはどのような状況だったんでしょうか。 大前氏: 当時、日本でのUnity市場は本当になんにもない状態でした。それを気にしてくれていたゲームライターの佐藤カフジさんが翌年のGDC(Game Developers Conference)で、インタビューをしてくださったんです。 なのに、その時のデイビットの回答は「日本は全然重要なマーケットじゃないですけど、重要になったらいいですね」みたいな感じで(笑)。 そこからあちこちでプレゼンしていたら、2011年くらいには少しずつ興味を持ってくださる会社さんがでてきました。 ──Unityに興味を持った方々はどのような悩みをお持ちだったんですか? 大前氏: 当時、流行していたスマホゲームの開発には、今まで使ってきたコンシューマーゲームのツールが使えませんでしたし、自社エンジンを作るのもスマホの更新の激しさとか、ハードの種類の多さを考えると難しいという問題があったんです。 ですので「今後のゲーム作りって、今のままで良いのか?」という悩みを抱えている人も少なくありませんでした。 僕もそういった問題は理解できる現場の人間だったので、相談に乗りながら渡り歩いていたら、約半年で売り上げが12倍くらいまで増えていたんです。2011年9月のCEDECでデイビットが国別のチャートを出したら日本が2位で、いつの間にか「重要なマーケット」になっていたんですよ。 そういうわけで、「さすがに日本に会社を作らないとまずいでしょう」と偉い人にプレゼンしていましたら、法人化しましょうという話になり、2011年9月に会社を立ち上げることになりました。 ──「会社を設立して売上を伸ばそう」ではなく「売上が伸びすぎたから会社を設立する」というのは、面白い順番ですね。 大前氏: その会社も最初は僕しかいなくて、次に豊田さんが加入しました。 さらにスタッフを増やさなくてはいけなかったんですが、当時はソーシャルゲームが大いに盛り上がっている時代でしたから、「普通に開発者を雇う金額じゃダメだ」となりまして。 そこで当時としては奮発した予算を握りしめ、ソニー・コンピューター・エンターテインメント(SCE)を辞めてフリーランスのコンサルタントとして活動されていた高橋さんのもとを訪れた……という流れです。 高橋氏: あの当時の僕は、ニコニコ動画に動画を投稿していたんですが、どうやらその動画が大前さんの目に留まったと、後から聞きました。 大前氏: そうなんですよ。「コインプッシャーを20分で作る」みたいな動画を投稿しているのを見て、「おぉ、この人すごいな」となりまして。 その後、年末に企画した交流会イベントで短時間のプレゼンテーションをお願いしたら快く引き受けてくださって「この人がいいな」となって採用を決めました。 ──大前さん、豊田さん、高橋さん、ここで立ち上げメンバー5人のうち3人が揃ったわけですね。 大前氏: 当時さらに入ってもらったのが、セガが初めてUnityで一本通した大型タイトル『三国志コンクエスト』のメインプログラマーだった伊藤周さんです。 伊藤さんとはもともと友人だったんですが、当時はセガがあまりモバイルゲームに力を入れておらず「GREEやDeNAのようなモバイルゲームに全力を出しているところへ移った方が良いのかな」という気持ちになっていたらしいんです。そのタイミングで声をかけたら、「大前さんと一緒にやりたい」と言ってくれました。 そして、今は上里田さんの下についている田中洋平さん。元々は豊田さんと一緒に別の会社で働いていた方で、当時は僕のところに来る山のようなメールをさばいてもらうためにバイトとして入ってもらいました。 当時は、僕しか会社にいないのに、その僕ですらほとんど会社に出社せず時折くるメールを返信するだけのシュールな仕事場だったんですが、それでも「この会社が面白いから一緒にやってみたい」と言ってくれました。「正気か?」って3回くらい聞きましたけど(笑)。事の起こりはそういう感じでしたかね。 ■立ち上げ時の目標はゲーム業界に「新しいスーパースター」を生み出すこと ──Unity Japanは、初期のころから一般的な会社に比べ、コミュニティを意識した取り組みがかなり目立っていた印象があります。 大前氏: そうですね。この話をしていくと、今のUnityの立場が苦しくなりつつある、という話にもつながってくるかもしれないんですけど……。 まず、僕らは日本のゲーム業界という狭い「村」的な界隈に属する人間でしたし、そもそもはその「村の問題」を解決したくてUnity Japanを立ち上げたんです。僕の意識としては、仲間におすすめするものだから、当然、嘘はつきたくないですよね。 ──大前さんがおっしゃる、当時の日本の「ゲーム村」の問題点というのは、具体的にはどういったものだったんでしょうか? 大前氏: これは2012年の12月26日の自分の日記なんですが、こんなことを書いていました。 1.ゲーム業界に新しいスターを誕生させること 2.CGゲーム業界なども巻き込んだ、新しいゲーム開発のエコシステム(生態系)を作り上げること 青臭いところもあるんですが、とりあえず「こういうことを目標にやっていこう」と考えてましたね。 ──「新しいゲーム開発の生態系を作る」というのは、言い換えると「Unityでゲームを作る世代を創る」という意識になるんでしょうか。 大前氏: そうですね。でも、そのうえでいくつか問題意識がありました。 そのひとつは当時、「現場で作られているようなゲームを作れるようになるには、どうしたらいいのか」、そのステップアップの階段が僕たちから見てもよく分からなくなっていたことです。 ──ステップアップの階段というのは? 大前氏: 僕らの世代はPC-88とかファミコンにあった、「数か月でゲーム作るぞ!」という予算感のシンプル目な小規模ゲームに子どものころから触れられたと思うんです。 だから「小さいゲームは小さいゲームで良い」という考えが自分の中にあり、まずはそれを作ろうというモチベーションが生まれた。そして、そこから段々とステップアップしていくという、ゲーム開発を学ぶ流れに乗りやすかった面があったんじゃないでしょうか。 だけど僕らより少し下の世代になると、最初に出会うゲームがいきなりPSPの『モンハン』とかなんですよ。「自分にも作れる」って思えるわけがないじゃないですか。距離が遠くなりすぎて、そういうゲームってどうすれば作れるんだろうとなってしまう。 ──ゲーム開発の規模が大きくなりすぎたため、ゲームを作ることへのハードルが上がってしまっていると。 大前氏: 要求されるものがどんどん高くなっていく中で、「若い子たちは、どうやってゲームづくりを学んでいけばいいんだろう?」と考えていました。 ゼロからゲームを作るより、完成済みのゲームをバラしていった方が勉強になる……という話もありますけど、かといって世の中にそのソースコードがアセット混みで転がってるわけでもないですし、本も今ほどは出ていなかった。この状況は、これから学ぶ人にとって非常に厳しいなと。 だから、とりあえずゲームを作れるゲームエンジンのようなツールがあると良いのかなと思ったんです。単純でもひとつゲームを作り、その後で段々と細かい部分や本質的なところを追求できるような環境を整えた方が、学べる人も増えて未来があるんじゃないかと思ったんですよね。 そうでないと、全体感としてのゲームデザインみたいなナイーブな文脈を学んだり、試したりする場所がないんですよ。 ──とにかく小さくてもゲームを完成させる、それができる環境が大事と考えたわけですね。 大前氏: それに加えて、当時はゲーム開発者のスターとして呼ばれる人の名前が毎年ほぼ一緒で、新世代のスターが生まれてないなって印象もありました。それもセットで問題意識があったのを覚えていますね。 そのころのインディーゲームの盛り上がりは今よりはずっと小さい印象でしたし。 ──なるほど。ゲーム業界に対して問題意識を持っていて、その解決を目指してUnity Japanは立ち上がった、と。 大前氏: そうですね。つまり、お金を稼ぐのは本質ではなかったんです。「日本のゲーム業界村の住人のみなさんに幸せになってもらうこと」が大事だと思っています。 ですから、ライセンスで儲けたお金はある程度Unity本社のものではあるんですけど、残りは日本のために使おうという意識で統一していましたね。 そのために、どうすればうまくいくか考えていて……その時に参考にしたのがマクドナルドの藤田田【※】方式でした。ブランドと理念だけは一緒。でもあとはこちら側でやる。これが一番いいやり方だと思って、ほぼ独立愚連隊みたいに動いていました。 ──Unity Japanの特殊さって、どういうところにあるんでしょうか。 大前氏: まず「ユニティちゃん」とか作っちゃうところじゃないでしょうか(笑)。 ──確かに(笑)。 𥱋瀨氏: あと、Unityを使って活躍してる人(外部ユーザー)がどんどん会社に入ってくるところですよね。 大前氏: そうですね。当時は韓国も中国のオフィスもトップダウンの組織構造なので、上からの指示に対して仕事をするスタイルの人が多いんです。逆に日本では「みなさん自主的にお願いします」という方針だったので、そういう雰囲気が影響していたのかもしれません。 あと、これもどうかとは思うんだけど……日本の開発チームは僕が勝手に作った組織なんです。 高橋氏: じつはUnity Japanの初期メンバーには英語が堪能な人がいないんです。なので、向こうの言うことがよく分かんなくて。「日本は日本で頑張るしかない!」という割り切りがあったんですよね。 大前氏: そうそう、それはそうでした(笑)。 僕らが人を採用する際、理想としては「日本のゲーム産業に対する知見と技術」と「英語」のどちらのスキルも持っている方ではあるんですが、そんな人材は稀有ですよね。だから、どっちを優先するか話をしたんです。結果として「英語は諦めよう」と。 𥱋瀨氏: 一応の補足として、私や高橋さんも会話くらいはできるんです。ただ、大前さんや上里田さんは向こうの幹部クラスの人たち相手にジョークで笑わせられる。会話ができるだけではなく、交渉を行い、こちらの意見を通すことができる、それくらい求められる言語力は高いものでした。 高橋氏: そういった海外との交渉や調整は、大前さんと豊田さんにすごく頑張っていただきました。我々を「日本の開発者に向き合うことに集中できる」状態にしていただけて、すごく心強かったですね。 大前氏: 確かに、その点については意識していました。でも、システムが増えていくとそういうのもできなくなるんですよね……。 𥱋瀨氏: 大前さんが社長に就任したあたりで、各々が海外と直でやりとりをするようになりました。そこで初めて「すごく色々なものを受け止めてもらっていたんだな……」とありがたみが分かりましたね。 ■10年前の学会での活動が今の普及に繋がっている ──そういった問題意識や、ある種の閉塞感というのは、大前さんだけでなくUnityJapan創設時のメンバーの皆さんも持っていたんですか? 大前氏: 話し合いはしていましたよね。高橋さんはその辺のこと覚えてます? 高橋氏: もともと僕はSCEに所属していたので、他のハードウェアでもゲームを作りたいという閉塞感を感じていました。それがSCEを辞めた理由でもあります。 当時はiPhoneがブームで、アプリを開発して個人開発者として稼ぐぞっていう時代だったんです。 僕も、SCEを辞めたからには「iPhoneのゲーム作りをやりたい」と考え、Unityを使い始めたんですけど、非常に楽で便利で、モバイルゲーム制作に参入するならこういうツールが絶対必要だなと感じました。 ちょうどそんな時に大前さんからUnityへのお誘いがあったので、今度はツールを普及する側の人間にまわろうかなと、クラスチェンジをしました。 ──𥱋瀨さんは、当時どういったお考えでUnityに参加されたんですか? 𥱋瀨氏: 私がUnityに参加したキッカケは、VRと関係があります。じつは私、VR歴がすごく長くて……初めてヘッドマウントディスプレイをかぶったのが1992年なんですよ。 ──1992年というと、セガが制作していた本当に最初期のものとかでしょうか……? 𥱋瀨氏: いや、そういうものではなく、1台800万円する大学の設備みたいなものです。ブラウン管の画面を2つ組み合わせて両眼立体視を作るという。当時、私はまだ高校生だったんですけれども、筑波大学でVR体験をしたときにかぶらせていただけました。 もともとゲーム開発者になりたいと思っていたのですが、その経験で「将来ゲームは全部VRになるだろう」と考え、VRの勉強をするために大学に行きました。 大学でハードウェアとソフトウェアを学んだ後、ゲームデザイナーになっちゃったのでエンジニアはしていないんですが、大学で学んだ専門的な知識をアドバンテージに、ゲーム作りをしてきました。 そして、2008年くらいからCEDECに参加するようになり、アカデミア(研究機関)の人たちと交流を持つようになっていったんです。CEDECにはアカデミアの人がけっこう参加しているんですよね。 それをきっかけに大学で授業をすることになったりと、ゲーム作りで培った知識を再びアカデミアにお返しする……という活動をするようになりました。 ──高校生の時のVR体験がきっかけがその後のキャリアに繋がっていらっしゃる。 𥱋瀨氏: 「IVRC」というバーチャルリアリティ学会のVRコンテストなどといった色々なコンテストで審査員しているのですが、国際学生バーチャルリアリティチャレンジ(IVRC)の審査員を務めることになった関係で協賛企業を探していたとき、「日本の学会はレベルが低い」と言われて断られてしまって。 それがすごく頭にきちゃいまして、新たに協賛してくれそうな別の企業を探し始めたとき、目を付けたのがUnityだったんですよ。 というのも、当時のVRってハードウェアもソフトウェアも作らないといけない状態で、とても大変だったんですが、そういった中でもUnityを使う人が現れはじめていまして。今後、確実にVRの世界にもUnityが普及していくと思ったんです。 それで、大前さんのところに行って「こういうVRのコンテストがあるんですけど、協賛しませんか?」って話したら、10秒くらいで「いいよ」って言ってくれました(笑)。 ──ものすごいスピード感ですね(笑)。 𥱋瀨氏: 言ってはくれたんですが、「今そういう業務をやる人がいないから、ウチに入って担当してよ」とも言われまして……。そんな感じで、いきなりUnityに入ったという流れになります。 大前氏: 𥱋瀨さんは当時、「ゲーム業界側がちゃんとアカデミアを開拓しないと、今後うまくいかなくなっていくのに……」というフラストレーションを抱えていましたよね。 うちの立ち上げメンバーの伊藤さんも似たような活動をしていて、それを𥱋瀨さんが「ずるいよ、俺もやりたいのに」と言っていたので「じゃあウチでやればいいじゃん」と話したのを覚えてます。 𥱋瀨氏: とはいえ、イベント協賛だけだと普及には繋がらないんですよね。VRのイベントでもさまざまな企業がブースを出しているのですが、それだけで学生が使いたくなるかというと、そううまくはいきません。 そんな中で、Unityでは独自の活動ができたと思っているんです。しっかりとインサイダー(関係者)になることができたんですよ。 ──関係者になれた、と言いますと? 𥱋瀨氏: 発表する場を作り、発表しあって世の中に広めることを目的として学会は開催されているのですが、Unityとして運営側に参加することにしたんです。 他の先生たちと学会を運営するし、協賛企業を集めたりもする。それと同時に学会で発表をする側にもなって、自分でもデモを作って実験や研究をして論文を書きました。 その結果、学会に製品を売りに来たセールスマンではなく、学会の仲間であり、Unityの人でもあると見ていただけるようになりました。それ以降はデモンストレーションがあるあらゆる学会に呼ばれるし、色々な大学に招かれるようになったんです。 自然とUnityの普及率も上がっていきました。最初は20チーム中1チームか2チームくらいが使ってるって感じだったんですけど、今は画面があるものはほとんどUnityって状態にまでなってます。 大前氏: その流れで、産業界にもUnityが流れ込んでいくようなエコシステムを作ろうって思いもありましたよね。 𥱋瀨氏: そうですね、当時はまだ産業界向けの「Unity Industry」が無かったわけですけれども、みんなが大学でUnityを使ってデモを作ると、それを使って研究発表が行われて、シーグラフ【※】みたいなトップカンファレンスに行くんです。 そして最終的に、そのカンファレンスに参加していた人たちが大きい企業の研究開発とかに行くわけでして。そこでも彼らがUnityを使うと、結果的に企業の中でUnityが使われることになり、産業界全体に広まっていくんです。Unityってそうやって拡大していったんじゃないかなと。 実際に今、10年前くらいに指導してた学生と一緒に大きな企業で研究していたりもして、あの時の活動が今にもつながってるなと思います。 ──そういった活動の結果、Unity世代ではゲーム開発者のスター的な存在もたくさん生まれましたよね。 大前氏: そうですね、有名どころだと『カニノケンカ』のぬっそさんとか、『RPGタイム!』のデスクワークスさんとか……。あと海外だと『Cuphead』もUnityで生まれた有名作品のひとつですよね。自分としてはLucas Popeさんの「Return of the Obra Dinn」も忘れがたい作品です。 𥱋瀨氏: 挙げようとすると、いくらでも出てきますね。『TIME LOCKER』のOtsuka Sotaroさんとか。 大前氏: 「これが俺のゲームだ!」って感じで、Unityでセンス良くゲームを出していった若い子がたくさんいましたし、逆に古(いにしえ)の強者たちがUnityで新たな活躍の場を得たりもしましたね。 「Unityがあれば、自分のセンスで世界中のファンに届けられるんだ」という感じで戦ってる人だと、『LA-MULANA』のNIGOROの楢村匠さんたちとか、オニオンゲームスの木村祥朗さんとかが思い浮かびます。 『ファイナルファンタジー』の坂口博信さんも、『テラバトル』からUnityを使っていましたし、『ファンタジアン』もUnityでした。そういうベテラン開発者の方々の間でも「独自のエンジンからUnityに切り替えよう」という意識があるのは面白いですよね。 ■立ち上げ当時は防御力ゼロの会社。10万ページ分の翻訳にてんやわんやした思い出 ──少し話が戻りますが、Unity Japanの立ち上げ時、大前さんはどのような思いをのもと、Unityの普及に取り組んでいらっしゃったんでしょうか。 大前氏: 今でこそ、ゲームクリエイターは「子供が将来なりたい職業ランキング」で上位に入るほど憧れの対象になっています。 でも13年前はそうじゃなかった。これからの日本で「若いゲームクリエイターがスターとして名を上げていけるのか」「ゲーム産業に新しい才能が入ってくるのか」など、将来が危惧されていた時代だった感覚があります。 これまではゲーム大国としてアジア各国に対して発注する側だった日本ですが、徐々にそのパイが小さくなりつつあって、いずれ受注する側になる不安もありました。人口は日本と同じくらいですが、ゲーム開発者はみんな20代で若いインドネシアのような国の状況を見るととくに。 そういった中で、日本の会社には積み上げてきたテクノロジーと自分たちの作り方がある。でも新興国にはそういうものがないわけですから、「ゲームエンジンを使ってゲームを作る」形が広まるというのは予想ができました。 そうなると、新興国が発注側となり、どこかに発注する際に「日本は作り方が全然違っているから発注しない」という事態になり兼ねないわけです。もし、この事態に陥ってしまうと非常にヤバいなと。 ──なるほど。日本のゲーム産業への危機感があってUnityの普及に取り組まれていたんですね。 大前氏: そうですね。もちろん、自社のテクノロジーを活用することじたいはアドバンテージですし、僕自身もフロム・ソフトウェアではゲームエンジンを作る立場だったので、その良さも知っています。 ただ、功罪のバランスとして考えたとき、今は功が立ってるけど、これから罪の重さが増えていくんじゃないかという危機感がありました。 それと同時に、転換していく世界の中でのゲームエンジンの功罪も考えて、そのうえでUnityの「功」を信じる思いでここまでやってきました。 今、NCSOFTや中国の大資本が展開しているのを見ていると、日本の開発各社がその流れに間に合ったのは良かったなと思います。もちろん、Unityだけの功績ではないと思いますが。 ──そんな立ち上げ時、とくに「大変だった」「苦労した」思い出があれば教えていただけないでしょうか。 大前氏: 今でこそしっかりしたサポートチームがいて、お問合せにちゃんと丁寧な答えが返し、きちんとした技術サポートをすぐにご提供できるようになったんですが、黎明期のころのUnityは「問合せに返信すらできない」状態が続いていました。 「できる時に気合で返信する」という具合でしたので、返信内容やタイミングもバラつきがありました。そもそも返信が来ないケースも結構あったと思いますし、ご迷惑をおかけしました……。 最終的にはあまりにもメールがたまりすぎて、一時期は高橋さんに阿修羅のような働きをしていただいてましたよね。 高橋氏: やってましたね(笑)。 𥱋瀨氏: 私もUnity入ってビックリしたことのひとつがそれでした。高橋さんが自分でサポートのメール返してるんだっていう(笑)。 大前氏: 僕が本当に不甲斐なかったせいなんですが、高橋さんには数えきれないほど苦労させてしまいました。だからこそ、しっかりとしたサポートを立ち上げることがずっと課題でした。 あとは、物事の順番を決めるやり方が普通とは違っていました。たとえば、コミュニティにアプローチするとき、普通であれば、あらかじめUnityのドキュメントやアプリをちゃんと日本語化しますよね。 でも、実際の我々は後回しにしたんです。というのも、その時期からUnityにアプローチして使ってくれる技術者やクリエイターの方は、みんな感度の高い人たちだろうから、英語でも何でも頑張って読んでくれるだろうと。 日本語化の必要性はUnityが普及するにつれて大きくなっていくものだから、その時に翻訳に着手すると決めていました。ローカライズするべきドキュメントは10万ページくらいあったので……そんな時間も人手も当時はありませんでした(笑)。 ──10万ページにも及ぶ翻訳とは……。気合を入れて取りかかる必要がある物量です。 大前氏: そうなんです。いざドキュメントのローカライズに着手しようと思っても、本社には予算もなければシステムもない、なんにもない状態でした。 そもそもデータ形式から何から、ローカライズというものを考えたシステムですらないんですよ。だから、日本側で必要なシステムを全部作って、自主的にローカライズをしていました。 ドキュメントだけでなく、Unity Editor自体の翻訳も大変でした。実装されている英語を抽出してローカライズ担当の人に見てもらいながら言葉を直して、その直した翻訳をUnity Editorに組み込めるリソースに変換して……というシステムが必要だったので、これもいちから作りました。 その後、もうちょっと人数が増えた2013年から2014年くらいに、2週間くらいかけてエンジニアみんなでUnity Editorの全部を日本語化するプログラミング大会みたいなのを開催しました。 その成果をすべてまとめて、Unity Editorの開発の中心地であるモントリオールに持って行き、向こうのスタッフとぶつかり合いながら翻訳を進めて今に至る……という流れです。 ──なんというか、聞いているだけでも大変な作業のように思えますね……。 大前氏: もう、本当に大変でした(笑)。ただUnityは、あちこちで細かい発明みたいなものが生まれて、それを取り込みながら進化していったところがあるので、「下から生まれたものでも良ければ使うぞ」みたいな文化はあったかと思います。 高橋氏: 最初は「全社員の顔と名前が一致する」規模で始まったベンチャー企業だったのが、今では世界中で「名前も顔もわからない人ばかり」の大きな企業になって……。本当にいろいろな変化があった中で、今思うのは「やっぱり、Unity Editorが一番かわいい」ってことなんです。 会社が大きくなっていく過程で、さまざまな取り組みをしてきましたが、10数年の活動において貫いているひとつの軸が、「Unity Editorを推す」 ってことなんですよ。 ──「Unity Editorを推す」というのは? 高橋氏: Unity Japanでは今年も大きな変化がありましたが、「Unity Editorを大切にしていこう」というのは今でも社内で共通の認識なんです。 そういう状況を見ていて、「やっぱりUnity Editorが大好きなんだな」という自分の気持ちが気づかされました。「Unity Editorが好きだ」、「Unity Editorがホームだ」と感じてくださる皆さんがいらっしゃる限りは、その人たちを支えていきたいし、その人たちと一緒に困難に立ち向かっていきたいなと思っています。 大前氏: 僕もUnity Editorのことが大好きです。今も使っています!! ■苛烈を極めたTGSのインディーズゲームフェス ──お話を聞いているだけで、いかに立ち上げ時から体制が整うまでは苦労の連続だったかというのが伝わってきます。 大前氏: 大変だったことと言えば、東京ゲームショウ(TGS)のインディーズゲームフェスとかもありましたね。 高橋氏: ありました! あれは大変だった(笑)。 ──どんどんでてきますね……。「インディーズゲームフェス」と言いますと、どういう経緯で引き受けることになったんでしょう? 大前氏: 「TGSでインディーのブースを初めて作るんだけど、どうすればいいか分からない」と相談されたのがきっかけでした。 話を聞いてみたら、インディーゲームを並べるだけの形をイメージしていて、「それじゃお客さん来ないんじゃない?」「うちで良ければ引き受けます」という流れで関わるようになったのですが……その内容で揉めて大変でした。 ──内容で揉めたというのは? 大前氏: 僕らの案で、ゲーム実況者を初めてTGSに呼んだのですが、当時はまだゲーム会社がゲーム実況者をどう扱えばいいか迷っていた時期だったんです。 先ほどの「新しいスターを誕生させなきゃ」っていう話にもつながるんですが、僕は「新しいゲーム開発者の作品に注目して宣伝してくれるのはこういう人たちなんじゃないか」って思っていました。 だから、TGSにゲーム実況者を呼び、たくさんのお客さんが集まり賑やかに楽しんでくれたら、みんなが「面白そう!」って思ってくれるんじゃないかって。 それで、人気トップのゲーム実況者が参加するイベントをTGSで開催したんです。当時としては、良いイベントができたと思うんですが、開催までに至る道のりは、まぁ激烈でした。 ──そのイベントというのはどのような企画だったんでしょう。 大前氏: 私たちとしては新しいスターを作りたいわけですから、当時の新進気鋭のインディーゲームを人気のゲーム実況者にステージで実況プレイして貰って面白さを知ってもらおう、というのがメインのコンテンツでした。その他にも、当時独立された稲船さんやコロプラの馬場さんなどみんなが良く知るスターの方に協力頂いて、インディーゲームの作家さん達とステージ上で対談を組ませて頂いたりとか、今考えても密度の濃いイベントだったと思います。 とはいえ、Unityとしては「Unityを使うとすぐにゲームが作れる」ことを知ってもらいたくて、「料理の鉄人」のオマージュで「ゲームの鉄人」という企画も重ねて実施しました。 60分で2本のゲームを作り、品評者に体験してもらい勝者を決めるという企画なんですが……ステージ進行の都合で60分が40分になってしまったんですよ。この内容で20分巻くのは無理ゲーじゃないですか(笑)。 𥱋瀨氏: 要は、20分でゲーム1本作りましたっていうことですよね。 大前氏: そういうことです(笑)。高橋さんや小林さん、みんなの頑張りでなんとかなったんですけど……アレ、映像残ってないのかな。すごくおもしろかったですよ。 ──高橋さんや𥱋瀨さんから見た、当時のドタバタエピソードって何かありますか? 𥱋瀨氏: 大前さんがお話されたようにいろいろありました……ただ、全員がかなり激烈に仕事をしていたので、「自分が大変だった」という感覚はなかったですね。 そんな中でとくに印象に残っているのが、ユニティちゃんの『Candy Rock Star』をリリースした時です。社内の人があんなにも集まってひとつのことをするのを初めて目にしました。 大前氏: そうでしたね。あの時は全員野球でした。カメラワークは高橋さんに作ってもらって。 高橋氏: そうですね、懐かしい。 𥱋瀨氏: Unity Japanでは非常に珍しい取り組みでした。しかも、すごく短い期間で作ったんですよね。そのうえ、2014年にリリースしたデモが今でも使われてるというのも、すごいことだと思います。 大前氏: 最近になっても「踊らせてみた」とかありましたし。10年選手で使われてるデモコンテンツって中々ないですよね。 ■「無理に売らなくていい」Unityを使い倒し、納得してもらってから買ってもらう販売戦略 ──少し話題が逸れるのですが、素朴な疑問としてUnityって企業対企業、BtoBの営業活動ってされているんでしょうか? 大前氏: 今も昔もしています。ただ、営業とは言っても、「相談に行く」というのに近いスタイルでしたね。 上里田氏: そうですね。私がUnityに入る時に大前さんが仰った「無理に売らなくていい。一度、使い倒してもらったうえでお買い上げいただいたほうがいいんじゃないか」という言葉がすごく印象に残っています。 「Unityを好きになってもらってから使ってもらいたい」というのは今でも大事にしているところです。 大前氏: 改めて言うまでもないかもしれませんが、アプリケーションを作るのって大変なんです。 いろいろな問題があって、それに対していろいろなソリューション(解決手段)があるんですが、その人が抱える問題を解決できないものを購入するというのは、お金の無駄になってしまうじゃないですか。そして、解決できるかどうかは、ある程度時間をかけて試していかないとわからない部分というのが多いんです。 「営業があって会社が購入したものを使うことになったけど、なにも解決しない……」と現場の人が感じてしまったら、その後に適切なタイミングがあったとしても「あんなもの二度と使うか」という話になってしまうじゃないですか。 僕らは「Unityがいいものだ」と確信していました。Unityを使うことで解決できるのであれば、お金を払っていただけるわけですから、無理に押し売りは必要ないと思っていましたね。押し売りするのは疲れますし、誰も得しない話はやめようと。 ──まさしく「営業」ではなく「相談」ですね。 大前氏: それと、僕はフロム・ソフトウェアでミドルウェアの選定・購入担当をしていたんですが、営業の方だけがプレゼンに来て、値段の話をされても困っちゃうんですよね。 本当に聞きたいのは技術的な問題を解決できるかどうかなので、できればエンジニアの方に来てもらいたい。過去にそういう経験があったから、僕としては営業活動をする意味についてはあまりないと考えていたんです。 ですから、Unityではまずエンジニアの方にヒアリングするところから始めました。「どういう問題があるの?」「どういうことで困っているの?」「どういう風に思っているの?」と。 無理に売ろうとしていないため、使わないほうがいい機能があったら素直に伝えます。それが現場の人からは良い反応をいただけていたのかなと。困ったときの相談相手として頼っていただけるというか、そういう信頼関係のようなものはあったと思います。 ──こういった方針は、当時大前さんが出してたんですか? 大前氏: そうですね。でも、そこまで明示してお話してはいなかったかもしれません。 高橋さんも伊藤さんも現場の人ですし、僕もそうあろうとしていました。ですので、共通認識として「こういう感じがいいんじゃないのか」という話を飲み会のときにするくらいだったかと思います。 ■テクノロジーの最先端からゲーム開発のインフラにまで発展したUnity ──少し視点を変えまして、まだ上里田さんがUnity Japanに入っていらっしゃらない時期、Unityが普及しはじめたくらいのころに上里田さんが外から見たUnity Japanというのは、どういった印象だったのでしょうか? 上里田氏: 正直、入社前の段階では「Unityに対する会社としての印象」はとくにありませんでした。 ただ、入社後……ふと前の会社にいた時にしていたUnityとのやりとりを思い出すと、担当者に高橋さんの名前があったり、電話に出るのが大前さんだったりして、「おふたりがこんなに前線で直接やりとりをしていた」ことに対して驚いた記憶があります。 ──大前さんや高橋さんが現場の業務も行っていたと。その時期はUnity Japanの規模はどの程度だったんですか? 大前氏: 恐らく2014年とか2015年の話ですよね。だとすると……30人はいなかったんじゃないかな。 𥱋瀨氏: 私は2013年の12月入社で、恐らく11人目だった記憶があります。 大前氏: 当時はとにかく採用に苦労していましたね……。 というのも、現場にお伺いして「ゲームエンジンを使う・使わない」という話をする際には、開発全体を見ているテクニカルディレクターやリードプログラマーの方とのやりとりになることが多いんです。 そのため、こちら側も同じ視点で受け答えができる人ではないと、本質的な会話にならないんです。ですので、いわゆる「強者(つわもの)」を集めようと思っていました。 ──なるほど。「開発全体の視点で話ができる能力のある方」というのが採用の方針としてあったんですね。 大前氏: はい。ただ、一方でそういう方々は「現場でゲームを作りたい人」が多いんです。ですから、Unity Japanで“縁の下の力持ち”的な仕事に興味を持っていただける方というのは少なくて……。 加えて、Unity Japanチームとの相性という壁も乗り越えないといけないので、採用にはかなり難儀していました。 「ひとりあたりの能力」という意味では効果がありましたが、なかなか規模の拡大が難しいモデルでした。サポートがうまく機能しない状態が続いてしまっていたのには、この採用方針が理由として大きかった思います。 今はもうそんなこともなくなり、少数精鋭にこだわる理由もなくなりました。この延長線上に、僕がUnityを離れる理由もあるんです。 ──と、いいますと? 大前氏: まず前提として、この数年間は会社として長く成立する「欧米式のシステム」への転換をずっと進めてきました。 じつは、Unity Japan立ち上げ時の2012年ごろにはここまで長く続く会社になるとは思ってもいなかったんです。 高橋さんを誘ったときにも「この会社は3年くらいでなくなると思うけど、来ない?」っていう話をしてたんですよ(笑)。𥱋瀨さんにも似たような話をしたような気がします 𥱋瀨氏: 「3年くらい……いや、3年もあるか分からないけど」と言われました(笑)。 大前氏: そうそうそう(笑)。ですから、声をかけるのは「たとえ明日に会社がなくなったとしても自分の力で生きていける人」だけにしようと思っていました。 それが、2016年、2017年くらいには「あれ? この会社なくならないぞ?」と感じるようになっていって……。 ──もしなくなってしまったら「ものすごく多くの人が困ってしまう会社」ですよね。 大前氏: ありがたいことに、Unityの普及率もすごく上がって、非常に多くの会社にUnityを使っていただけるようになっていきました。 我々のポジションが「新進気鋭の新しいテクノロジー」という槍の先端みたいな尖ったところから、電力会社や水道会社のようなインフラのようなものに役割に変わってきていると感じたんです。 ──確かに。「Unityはゲーム開発になくてはならない存在」と言って過言ではないほどに普及が進んでいます。 大前氏: そうなってくると、「新しい機能がたくさん使えるようになる」ことよりも、「毎年しっかりと新しいOSに対応し、同じように使える開発環境が継続される」ことのほうが重要になってきます。 自然とサステナビリティ(持続可能性)に意識が向くようになりまして。以前の僕のやりかたは、個人に頼っているところが大きく、意識を変えなくてはいけないと思うようになりました。 10年、20年続く会社であるためには、会社としてのシステムも転換しなければ崩れてしまうだろうと。その転換が進めば進むほど、少数の強者たちが「八面六臂の活躍をしてなんとかする」というタイプの会社ではなくなっていくわけです。 そうなると当然、強者たちの中からも、新たに大活躍ができる荒野を求めて旅立っていく人が増えていって……。そして最終的に僕が旅立てるようになったら、会社としての転換は完了かなと想定していました。 ■今後も日本の独自性や文化を大事に提供を続けていく ──大前さんが辞められた後でも、そういった日本の独自性というか、文化みたいなものは引き継いでいく形になるんでしょうか。 𥱋瀨氏: そうですね。「現地での活動は現地に合わせて」という方針ですし、日本の判断を尊重するとも言われています。 上里田氏: 営業活動として、数字を求められる部分はもちろんあるんですが、大前さんが社長在任中の1年間で海外と直接やりとりができるようになり、だいぶ本社にもこちらの主張をわかってもらえるようになってきたかなと思います。 どこまでできるかは分からないですけど、できるだけ日本の独自性や日本の意見を伝えていきたいと考えています。 大前氏: みなさん僕のことを持ち上げてくれていますが、僕は大した仕事はしていませんので(笑)。みなさんが各々で勝ち取った成果だと思っています。 ──今後も、これまでのUnity Japanスピリットみたいなものは引き継がれていくわけですね。 𥱋瀨氏: と、思います。少なくとも私はそうやっていくつもりでいます。 上里田氏: はい、出来る限り頑張ります。 ──それではみなさんから大前さんへ、ひと言メッセージをお願いします。 上里田氏: 私は他のおふたりと比べて短い期間でしたけど、ありがとうございました。引き続きUnityを使ってください(笑)。 大前氏: もちろんです! 𥱋瀨氏: 大前さんに「この会社3年くらいしかないかも」って言われて、5年くらいしたら大学の先生にでもなるかなぁと思いながらUnityに入ったんですけど、気づけば生まれて初めて10年以上同じ会社で働いているんですよね。 完全に「大前体制がツボにハマったな」とも思っていますが、Unityという会社には良いところがすごく沢山あって、ここを続けていきたい気持ちがあります。 大前さんがUnityを辞めたということは、「恐ろしくUnityに詳しいユーザー」がひとり、野に放たれたわけでもあります。新たにUnityの可能性を見せてくれる人が現れると楽しみに思っています。 高橋氏: いや、何を言ったらいいのやら……。じつは、大前さんが社長になったときは、素直に「社長就任おめでとう」と言えなかったんです。「辞めにくい立場になって……Unityを辞めることは難しいんじゃないか」と内心思ってしまっていました。 ですので、今回はベストなタイミングで辞めることができたんじゃないでしょうか。まぁ、まだ顧問ということで少し身近な感じはありますけど……。 外部の人になっていくことで、Unityの改善すべき部分とかも見えてくるようになるんじゃないかなと思います(笑)。 大前氏: 逆に、そういう部分もよく知っているからこそ付き合いやすいと思う部分もありますね(笑)。 高橋氏: とはいえ、中の人としての事情も知りつつ、外から見た時の感覚も分かっている人って、そんなに世の中にいるわけではないので。今後はUnityにとっても、非常に貴重な意見役になってくださると思います。 もう外の人なので、Unityの更なる成長というか……良い部分を良くして、悪い部分を直していくための糧になっていただければと思いますので、何でも遠慮せずに気兼ねなく言ってきてください(笑)。 大前氏: ありがとうございます!(笑) ──最後に、大前さんから一言お願いします。 大前氏: この13年間楽しかったですし、頼りになる仲間がこれからのUnityを支えてくれるおかげで、僕も安心して開発に乗り出せます。成果が上がれば、どこかで自慢したりとか、高橋さんみたいにコミュニティに還元したりとかしていきたいと思っていますので、むしろ今までよりも実のあるアウトプットが出るんじゃないかなと(笑)。 高橋さんから「Unity Editorが大好き」というお話がありましたけど、僕も本当に同じことを思っているんです。世に出なかったイノベーションもふくめ、Unity Editorの中で結構いろいろな事をやってきたんですよね。 一番最後にやったTCC【※】というプロジェクトも、ついこの前世に放たれましたし、こういったところを僕自身も活用しつつ、これからもUnity Editorの上で、「僕はこんな風にゲームを作りたいぜ」っていう自分なりのゲーム開発を、実験していきながら追及していきたいなと思っています。(了) さて、今回の座談会では、Unity Japanの社長を辞し、顧問に就任される大前氏を中心に、Unity Japanの立ち上がりから現在までの道のり、そして今後のUnityに関するお話をうかがった。 ここ10年間における、日本でのUnityの普及スピードには目覚ましいものがあった。その背景に、大前氏を筆頭とするUnity Japanが取り組んできた、コミュニティに根ざした独自の営業方針と普及活動があることは間違いないだろう。 Unityが普及した結果、現在の日本ではインディーゲームの注目度が大きく高まり、業界内に新たな風が吹き始めている。Unityの普及とともに、この10年間で業界が大きく変化したことの表れとも言えそうだ。 そして大前氏は今後、Unity Japanの顧問を務めると同時に、いち開発者としてゲーム制作に取り組んでいく姿勢を示している。和気あいあいとして今回の座談会でも周囲から慕われる大前氏の人柄を垣間見ることができたが、そんな同氏がどのようなチームを作り、どんな作品を手がけるのか、引き続き注目していきたい。
電ファミニコゲーマー:TAITAI,実存,竹中プレジデント,久田晴
【関連記事】
- 『龍が如く』最新作に出演する“ミナト区系女子”のオーディションが募集開始。合格者はCG&実写でゲーム内に出演、最新作に関するプロモーション活動にも参加する
- プレイステーション公式番組「State of Play」5月31日午前7時から放送決定。「PS5」「PS VR2」向けの14タイトルに関する最新情報を30分以上にわたってお届け
- 「一瞬で壁を消しちゃう」「オブジェクトをぜんぜん別のものに変える」『THE FINALS』の新スキルがやりたい放題すぎてすごい。破壊要素マシマシFPS、シーズン2でさらなる自由度を得る
- KADOKAWA、『ブラッククローバーモバイル』を手がける韓国のゲーム会社「VIC GAME STUDIOS」と資本業務提携。アニメIPを活用したモバイルゲームの開発を強化する構え
- 『そろそろ寿司を食べないと死ぬぜ!ユニバース』Nintendo Switch版が4月4日に発売決定。「寿司! 美味すぎるだろ!反省しろ!」のセリフがとにかく耳に残る