『ちびまる子ちゃん』声優交代、松本人志不在のピンチヒッター…「代役・交代」をエンタメ化して消費してきたテレビ番組が直面する課題
「松本不在」というモヤモヤを感じる番組に必要なのは?
松本不在で改めて感じるのは句点の「。」をつける存在の重要性だ。オチをつけるというのともちょっと違う。その人が何か言うことで番組に「。」がつく。そういう存在である。 そういう人がいない番組は「。」のない文章のようになんだか落ち着かない状況になる。 『だれかtoなかい』は中居くん自体が「。」をつけられる存在なので、松本の代役はかならずしもそういう能力を持った人でなくともよかった。 一方、松本が今回の件以前に正式に降板している『ワイドナショー』(フジテレビ系列)が、いまだになんとなく松本不在を感じさせ続けているのは「。」をつける役回りの人がいないままだからである。 テレビで、代役を立てたり、交代したりするときは、その対象が番組にとってどのような存在であるかをよくよく考えなくてはならないのである。
代役や交代をエンタメ化してきたテレビの事情
近年テレビは、代役や交代をエンターテインメントとして消化してきた。 番組の歴史が長くなってくると、どうしても不動のレギュラーでは続けられなくなる。 ときにはレギュラー陣に突発的な事象が発生して一時的に代役を立てるケースもあるし、個人的な事情や番組の事情で交代を余儀なくされるケースもある。 そのときに発生する代役や交代というものは、ある種のイベントとして楽しむことが視聴者にとっても習慣化している。 もちろん『笑点』(日本テレビ系列)の大喜利出演者交代のように番組サイドがハナからイベントにする気満々のものもあれば、突発的に苦肉の策で代役や交代を急遽進めるケースもある。 とくにコロナ禍を境に「突然の体調不良で代役」は日常茶飯事であったし(代役の代役みたいなこともよく起こっていた)、不祥事で活動休止のパターンも頻繁に発生しているのはご存じの通りだ。 (それとこれとを同列に扱うなよと言われるかもしれないが)理由、緊急度合い、円満かそうでないかはどうあれ、「あの人の後任どうなるんだろうね」「代役立てるのかな」「あの人がいいな」「その人になったんだ。意外」「よくこんな状況であの人受けたな」「へー、裏ではこんな議論が……」といったことを、視聴者みんながガヤガヤ勝手に言うところまでが一連の流れとしてエンタメ化していると思うのだ。