年収150万円の71歳男性が「定年前」に歩んできたキャリアの実態
年収は300万円以下、本当に稼ぐべきは月10万円、50代で仕事の意義を見失う、60代管理職はごく少数、70歳男性の就業率は45%――。 【写真】意外と知らない、日本経済「10の大変化」とは… 10万部突破のベストセラー『ほんとうの定年後』では、多数の統計データや事例から知られざる「定年後の実態」を明らかにしている。
変えられない部分が多かった住宅業界
畠中雅夫さんは大学を卒業後、大手住宅メーカーに就職。住宅営業の仕事に携わる。 初職の会社では、一般の人が休んでいるときに仕事することが当たり前であった。顧客最優先の仕事であることからどうしても日々の勤務時間は長くなり、本来ならば会社の休日である水曜、木曜も出勤することが求められた。 仕事と生活とのバランスを取りたいという考えから、入社4年後、異なる業界に飛び込むことを決める。 「誰もが知っているハウスメーカーに就職できたということもあり、やる気がありました。ただ、社会に出て実際に仕事をしてみると、自分に合ってるのかどうか思い悩むことが時間を追うごとに増えてきまして。今では業界もだいぶ変わってきましたが、当時は業界の慣行とかやり方っていいますかね、変えられない部分が多いなって思ったんです。そこに一生付き合うのは無理だと思って、そしたらもうやる気もなくなってきて。これはもう違う職に就こうというのが、その頃の気持ちの持ち方です」
私立大学職員という仕事
次の仕事に選んだのは、日本でも有数の学生数を誇る関西の私立大学職員。営業職として仕事をしてきた経験から、大学の学生募集の仕事に携わる。 具体的には、高校の先生方と良い関係を築きながら推薦入試の調整をしたり、高校生に対して大学の説明会を開くことでより多くの優秀な学生に大学に対して興味関心を持ってもらうための仕事だった。 「高校の学生さんにどういった形でアプローチするかを割と長いスパンで計画を立てる。それである程度多くの人を相手に話をするっていった仕事が、やってて面白いなって思いました」 途中、東京事務所への転勤なども挟みながらも、学生への営業の仕事を継続する。畠中さんは現役時代を通して意欲をもって仕事をしていたが、結果として管理職に就任する機会はなかった。 「私たちの大学では対外的には部長・課長があって、その下にたとえばプロジェクトマネジャーだとかリーダーだとかはあるんですが、正式な学校内での役職は部長と課長のみです。だから、いわゆるプロジェクトマネジャーにはなったんだけど、それは正式な役職ではないです。ある程度のキャリアがあったんで周りの人たちを指導する機会もありましたけど、いわゆる管理職としてではなかったです」 つづく「多くの人が意外と知らない、ここへきて日本経済に起きていた「大変化」の正体」では、失われた30年を経て日本経済はどう激変したのか、人手不足が何をもたらしているのか、深く掘り下げる。
現代新書編集部