「あなたのお話を聞かせてください――」見知らぬ森で本をつくっていく:編集者リレーエッセイ
寝しなに、家事手伝いの最中に、祖母や母から語り継がれた民話のともしびは、TVが普及する一九六〇~七〇年代ですでに消えかかっていた。そこへ、若かりし小野さんがとつぜん「民話を聞かせてください」と訪ねてくるのだから、皆がたまげただろう。しかし彼女の異様な熱意に気圧され、せがまれたひとびとはつぎつぎ物語を吐き出していく。ひとりの人間のからだに、百も二百も物語をためこめるものかと、読みながら呆気にとられる。 小野さんの二冊の本には、この世のものとは思えない「語り」をめぐる儚さと、山村の民話が放つ獰猛な生命力の、相反する気配がうごめいている。 命を消しかけた物語たちが、ひとつずつ息を吹き返していくさまに、ページをくりながら、やはり今回も呆然とする。 紹介したい民話は数あれど、このときふいに立ち止まらされたのは、小野さんがみずからの説明に戸惑う場面だった。 「ほんでぇ、あんた、なに商売の人っしゃ」 と聞かれた。こういうとき、「○○の商売です」と、はっきり答えられる商売を持っていたら、どんなにいいだろうと思う。 「商売はないんです」 そう答えると、それでは、どうしてこんなことをして歩いているのかと、その大義名分を語らなくてはならなくなる。わたしには身分を証明するこれという肩書きもなく、職に就いてもいない。三人の子持ちの主婦である。苦し紛れに、 「昔話が好きで聞きたいから、こうして歩いているんです」 と答えると、あきれ顔をされる。 「へえーっ。よっぽどの物好きだねぇ。よっぽど暇なんだねぇ」 (小野和子『あいたくて ききたくて 旅に出る』2019年 PUMPQUAKES) 「よっぽど暇なんだねぇ」とは、生きるものへの最高の賛辞だろう。 勤め人になって十二年、書き手や装丁家に依頼をしにいくと、大抵「編集の者です」とつまらぬ身分を名乗ってしまう。そうしなければ、なにもはじめられないとでも思っているのか、しかしずっとそのことが恥ずかしい。言ったが最後、たぬきが頭に葉っぱをのせている感覚がこころを去らない。 いい本をつくらせてください、読者を楽しませたい、社会に問いを投げたいのです――そのどの理由も真っ当で、誠実な色合いをまとうから、不埒な自分はときに借用したし、今後もうっかり口にするにちがいない。 でも、本当はどの説明もじぶんには不釣り合いなのだ。 「は? あんた怪しい人?」と喝破してもらえたら、正体を見破られた安堵で薄ら笑いすら浮かべるだろう。 強いなにかに突き動かされ民話を採集しはじめた小野さんのことばを、いまの自分に重ねるのは果てしなく不遜だが、「あなたの話が聞きたいから、こうして歩いてきたんです」――これだけが本当のことで、この欲望のまえでは、本の編集という仕事すらおずおず差し出す隠れ蓑でしかない。 小野さんの本は、読み手をたちまち河川にながれる一滴の水や、土中にひそむ小さな虫に変えてしまう。過酷で、愉快で、愛おしい、生のあらゆるをのみほさせ、人間社会になじもうとする“じぶん”という乗りものの挙動の可笑しさをも暴きたてる。 こういうひとが、本が、給水所のようにあらわれてくれるから、命からがら見知らぬ森を歩いてこられた気がする。 あなたのお話を聞かせてください――それだけを言って、あてどなくへどもど本をつくっていけたらと思う。
朝日新聞社(好書好日)