大河ドラマ『べらぼう』で描かれた「蔦屋重三郎の”たくましい性格”」は、どう育まれたのか? 記録がおしえてくれること
母の教え
1月5日にNHKの大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の放送がスタートし、第一回は、遊廓の街・吉原で働く蔦屋重三郎の姿が描かれました。 【写真】えっこれが…!? 蔦屋重三郎がプロデュースした「有名な絵」 印象的だったのは、横浜流星さん演じる重三郎の、気風のよさや、権威に屈することのない雰囲気、あるいはたくましい性格ではないでしょうか。遊廓にやってきた武士にたいして表面的には従順な態度を見せるものの、内には反骨の思いを秘めている様子や、遊女たちを思う姿は、横浜さんの演技とあいまって魅力的な人物像を提示していました。 では、実際のところ、重三郎はどのような性格の人物だったのでしょうか。 それをおしえてくれるのが、『新版 蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』(講談社学術文庫)という本です。 本書は、重三郎の人生と業績をくわしく追いつつ、それがどのような時代背景のなかで生まれてきたのかをたどったもので、人文系・社会科学系の書籍に与えられる「サントリー学芸賞」も受賞しています。著者は、美術史家で東京都美術館学芸員などをつとめた松木寛さんです。 重三郎の性格について本書では、重三郎と親交の深かった狂歌人の大田南畝や石川雅望が残した記録をもとに、その出自とともに以下のように紹介されています。同書より引用します(読みやすさのため、改行や数人の表記などを編集しています)。 *** 寛延三年(1750)正月七日、蔦屋重三郎は丸山重助を父、広瀬津与を母として、江戸吉原に生まれた。重助は尾張の出身だが、津与は江戸の人だった。尾張から江戸へ出てきた重助は、そこで津与を知って彼女と結ばれたのだろう。 重三郎の本名は柯理(からまる)、通称を重三郎といった。重三郎の「重」の字は、父重助の一字を貰ったのだろう。 重三郎に兄弟があったのかどうかなど、丸山家の家族構成に関しては、今のところ全く不明である。また、父の重助がどのような人物で、何を職業としていたかについても、具体的なことは分かっていない。しかし、重三郎が吉原で生まれた点からすると、重助も吉原という特殊な地域に密接な関係のある仕事に就いていたと思われる。ともかくも、重三郎は父母と一緒に幼年期を過ごしたのだった。 ところが「(広瀬氏)柯理を生みて出て、柯理幼くして喜多川氏を冒し、蔦屋重三郎と称す」とあるように、やがて両親は何かの理由で離別し、幼い重三郎は喜多川氏の経営する商家・蔦屋に養子として貰われていくことになる。 「小人七歳にして母と離れ」と重三郎が述懐しているところから、これは重三郎七歳の時の出来事だったと考えられる。 重三郎にとって、母親津与は格別な存在だったようだ。重三郎が南畝に依頼して、母親の遺徳を讃える碑文を作ったこと自体、重三郎の津与に対する心の象徴である。 碑文の中で南畝は、重三郎を成功に導いた彼の堅固な意志は、想うに母親の教育の賜物だろうとの趣旨のことを述べ、幼年期における人間形成の過程で、津与が重三郎に及ぼした影響力の甚大さを示唆している これから推測するに、強い意志をもった人間となることの必要性を諄々と説きながら、我が子の大成を願いつつ、彼女は重三郎を育てていったものと思われる。ここに柔和な愛情の中にも厳しい精神力を具えていたと思われる津与の人間像が浮かび上がってくる。 石川雅望は重三郎の人間を評して「志気英邁」としているが、この性格こそ津与譲りのものだったのだろう。彼の内々には母親と同じたくましい血が色濃く流れていたと見てよいのである。 幼年期の生活のなかで、重三郎の母親を敬慕する心は日一日と深まっていき、二人の別離後もそれは強まりこそすれ、決して弱まることはなかった。それ程に重三郎と母津与との精神的な絆は強力だった。 *** 母によって育まれた重三郎のたくましい性格が、これからのドラマの展開のなかでどう生きてくるのか。放送がますます楽しみです。
学術文庫&選書メチエ編集部