ソウルの日韓交流の象徴だった東大門運動場
「東大門運動場」の歴史
韓国の首都ソウルの繁華街の一つに東大門(トンデムン)地区がある。 朝鮮王朝時代の首都だった漢城(ハンソン=現在のソウル)は城壁に囲まれた城郭都市だったが、東西南北に四つの大門が設けられており、東の大門が「興仁之門(フンインジムン)」で、一般には「東大門(トンデムン)」と呼ばれていた。 「30年前から進歩がない」財務省に失望…元大蔵官僚の筆者があきれる「明確な根拠」 現在も1869(明治2)年に立て直された大門が残っており、国の指定宝物となっているが、周囲はファッション関係の商店や飲食店がびっしり建ち並び、ソウルを代表する繁華街の一つとなっている。ソウル中心部にあり、地下鉄3路線が乗り入れる交通至便の場所でもある。 2009(平成21)年には東大門歴史文化公園が完成したが、その一角に古い2基の照明塔が立っている。 この公園はかつて「東大門運動場」というスタジアムがあった場所であり、その記憶を維持するために照明塔が取り壊されずに残されているのだ。照明塔下には東大門運動場記念館が建設され、韓国スポーツに関する歴史資料などが展示されている。 スタジアムがあった場所は、朝鮮王朝時代には首都防衛軍に当たる下都監(ハドカム)や訓練都監(フルリョンドガム)が置かれた場所で、19世紀に入港した英国軍艦の将兵が漢城を訪れた時に、その練兵場である訓練院でフットボールの試合が行われたこともあった。 スタジアムは日本統治時代の1925(大正14)年に、朝鮮総督府が裕仁皇太子(後の昭和天皇)の結婚を記念して建設したもので、わずか5か月の工期で同年10月に完成。2万5000人を収容するスタジアムで、当時は「京城(キョンソン)運動場」と呼ばれていた。 陸上競技場のほか野球場や水泳プール、テニスコート、シルム(朝鮮式相撲)場も建設され、狭い敷地にスポーツ施設が密集。周囲にはスポーツ用品店が軒を連ねていた。
明治神宮外苑競技場と京城運動場
日本国内で初めて建設された本格的なスタジアムは、1924(大正13)年に完成した東京の明治神宮外苑競技場(現在の国立競技場の前身)だった。また、同年には兵庫県鳴尾村(現、西宮市)に甲子園野球場も建設されている。 それからわずか1年後に、明治神宮外苑競技場とほぼ同じ規模のスタジアムが朝鮮にも建設されたのだ。 第1次世界大戦後の日本ではスポーツ熱が高まっており、朝鮮在住日本人の間でも野球やテニスなどが盛んに行われるようになっていた。また、総督府は日韓併合直後の1910年代には朝鮮人のスポーツ活動を「民族意識を刺激する」として禁止していたが、1920年代に入ると、むしろ朝鮮人のスポーツを奨励。日本と朝鮮の融和のために利用するようになっていた。 京城運動場は、そんな時代を象徴する存在だった。 東京の明治神宮外苑競技場が完成すると、以後、毎年ないしは2年に1度、内務省主催で「明治神宮競技大会」が開催された。日本全国から選手が集まる総合スポーツ大会で、その後、神宮大会は大会名称など変遷はあったものの、1943(昭和18)年まで続いた。 明治神宮大会と同じように、朝鮮でも京城運動場が完成するとすぐに「朝鮮神宮競技大会」が始まった。 「朝鮮神宮」というのは1919(大正8)年に京城の南山(ナムサン)に設けられた日本式の神社で、運動場が完成した1925(大正14)年には従来の「神社」から「神宮」に改称され、朝鮮人にも参拝が奨励あるいは強要されることになる(戦争が終わるとすぐに取り壊された)。 朝鮮神宮競技大会は日本人も朝鮮人も参加できるオープンな大会で、明治神宮競技大会の予選を兼ねていたので、優勝者は朝鮮代表として東京での大会に参加することになっていた。 また、日本人向けの「朝鮮体育協会」や朝鮮人向けの「朝鮮体育会」もそれぞれ日本人だけ、朝鮮人だけの総合スポーツ大会を、新しく完成した京城運動場を使って開催。また、1930年代に入るとサッカーは朝鮮で最も盛んな競技となっていたが、朝鮮蹴球協会は京城運動場で、全朝鮮蹴球大会などさまざまな大会を開催した。