ラウールは日本映画の閉塞性を打破するメルクマールになる 若きカリスマが放つもの
ラウールの一にわかファンとしてのわたしは正直に言うと、『ハニーレモンソーダ』『赤羽骨子のボディガード』の両作に物足りなさも感じている。漫画原作による荒唐無稽な学園活劇であることによって、一般の日本人男性とはおよそかけ離れた究極的カリスマ、ラウールの魅力が画面内にわかりやすく提示されている一方で、生身の人間としての手応えはあまり感じられないのである。 「荒邦の原作のビジュアルが刺激的で。自分もビジュアル的には日常に溶け込むタイプではないから(笑)、そういう点でもちゃんと準備したらできるかなという気持ちがありましたね。(中略)普段からお仕事も人との出会いも運命的なものを信じているし、何よりやらなかったら後悔するだろうなとも思いました」(公式インタビューより) 威吹荒邦役の打診を受けた際の決意として、このようにラウールは語っている。まさに「日常に溶け込むタイプ」ではない人物像を圧倒的なカリスマ性によって、登場人物としてもアイドルとしても構築してきたのが、ラウールの歩みだったと思う。しかし、世界を征服するためにラウールがこれから歩むべき道は、もっと別なところにあるように思えてならない。 日常的な人物を演じられないというジレンマは、若き日の伊勢谷友介が吐露していた。ラウールのポテンシャルをまざまざと感じている者としては、伊勢谷友介のジレンマをラウールにはぜひとも克服してほしい。 身長192センチという恵まれた身体能力を使って、生身の人間を、その人の生活を、その人の愛を、喜びを、苦悩を、「日常に溶け込む」姿を、画面という画面に刻み込んでほしい。そして、ラウールという特別な存在を、リアリズム映画の登場人物として難なく使いこなしてしまう映画監督が登場してほしい。男性監督でも女性監督でもかまわない。それは日本映画の閉塞性を打破するひとつのメルクマールとなるかもしれず、その時ラウールというネームは、世界においてラウール・ゴンサレス・ブランコを指すばかりではなく、村上真都ラウールを指すようになっているかもしれない。「Yohji Yamamoto POUR HOMME」のランウェイを歩くラウールを見た時以来抱いてきたわたしの思いは、そのような未来像である。
荻野洋一