人類はなぜ太古の昔から「儀式」を行なってきたのか? 人類学者がその効能に迫る
長い、堅苦しい、退屈、何のためにしているかわからない。今の季節だと卒業式や入学式・入社式など、義務的に参加する行事に対して、苦手意識を持っている人も多いだろう。時間と手間のかかる、合理性や生産性の無さそうなこうした「儀式」は、なぜ今も存在しているのか?認知人類学者ディミトリス・クシガラタスが、その理由を解説した一冊。それが今年1月31日発売の本書『RITUAL ――人類を幸福に導く「最古の科学」』(田中恵理香 訳、晶文社)だ。 『RITUAL ――人類を幸福に導く「最古の科学」』(田中恵理香 訳、晶文社) そもそも人類と儀式の関係は、太古から続いているのだという。人類が儀式を行っていたことを示す最初期の痕跡は、埋葬である。スペイン北部の洞窟で見つかった、意図的に置かれていたと思われる骨格の残骸。それは43万年前に存在していた、ホモ・ハイデルベルゲンシスに属するものだった。この発見で当時埋葬が行われていたと断定はできないものの、現在の人類に近い種であるネアンデルタール人の時代には、各地で死者を埋葬していたことが立証されている。 今の世界に目を向けてみると、儀式は我々の身近に実はいくつも存在してきている。生まれる時には、すでに名づけという儀式が行われている。子どもの頃は食事の時の決まりごとに、就寝時の読み聞かせやおまじない、誕生日パーティーなど、儀式的なルーティンやイベントを通じて社会規範を身につけていく。儀式は社会のあらゆるところで、普遍的に存在するものなのだ。 さらに人々が儀式に求めるものもまた、普遍的である。ポーランドの人類学者ブロニスワフ・マリノフスキーは、1914年に大洋州地域の島ニューギニアへ旅立ち、現地の人々とともに暮らして彼らの生活を記録する。そこで発見したのが、漁業・農業・紛争・病気・恋愛・自然現象といったさまざまな領域で共通する、儀式を行う基準だった。 〈成功の可能性と不測の事態にかかわる要因が多岐にわたっているとき、また希望と不安のあいだで感情の揺れが大きいときには、かならず呪術を行っている。求めるものが確実であてにでき、合理的な方法と技術的な処理で制御できる場合は、呪術は見られない〉。 マリノフスキーはそれが、自分たちの社会における信仰や慣習とあまり違いのないことに気づく。 意外な事実の数々を前に、儀式に参加させられた時のような退屈さとは無縁の本書。中でも興味を引かれるのが、儀式の効果についてテクノロジーを駆使して検証する試みだ。 スペイン北東部の小さな農村サン・ペドロ・マンリケ。この村は毎年6月の祭りにおいて、2トン以上のオークの木で火を起こして行われる、大規模な火渡りの儀式により有名である。著者はかつて博士論文を書くための研究でサン・ペドロを訪れ、現地の人々に火渡りについてインタビューしていた。〈参加することで「ほんもののサン・ペドロ人」になったと感じる〉〈人生で何よりも大切な出来事だ〉。彼らはなぜその儀式が必要なのか、〈ならわしだから〉という以外にわかってはいない。だが、火渡りを通して得た〈言葉では説明できない感覚〉を共有していた。 博士号を取得した後、著者は宗教心理学の研究者と生物工学専門の大学院生とチームを組み、火渡りがこのような感覚を生み出すメカニズムについて研究する。祭りの行われるタイミングでサン・ペドロを再訪し、調査を開始。火渡りをする人たちと見物する人たちに、心拍モニターを装着の上で祭りに参加してもらう。そのデータを後日解析してみると、彼らの心拍パターンは火渡りの間、不思議なほど同調していた。しかも、地元の人同士や血縁者といった密な関係であるほど、心拍の近い結果が出ている。火渡りは参加者の感情のつながりや一体感を強める効果のあることが、数値上でも明らかとなったのだ。 近年、こうした科学的な手法での儀式にまつわる研究が進んでいるという。たとえば、結婚式で式が始まる前と誓いの言葉の直後に、出席者の血液を採取し、神経ホルモン「オキシトシン」の値に与える影響を測った実験。女性がダンスする動画をアバター化し、どの動きに魅力を感じるか個人の特徴がわからない状態で200人に評価してもらう、求愛の儀式にも関連した実験。自らの体に針を突き刺した状態で供物を運ぶ、ヒンドゥー教の儀式「タイプーサム・カヴァディ」。その参加者の皮膚伝導と健康状態を記録し、苦痛と心理的な健康の相関関係を調べた実験などなど。本書では著者以外の研究者によるものも含めた、ユニークな調査とその結果が紹介されている。 儀式には何らかの意義と効能がある。そうわかると逆に、目的や効果を明確に意識しないまま、時に祈り、時に体を痛めつけ、リモートだろうと儀式を続けてきた人類が、より不可思議な存在に見えてくる(ただし、「儀式に効果があるはず」と思い込みすぎることの危険性についても本書では触れられている)。この感覚も本書を読んでもらえれば共有できるはず……って、読書も儀式の一種なのではないか?読後はあらゆる物事を儀式と結びつけたくなり、その度に著者のこの言葉を思いだす。〈私たちは儀式的な種なのだ〉。
藤井勉