「特攻していれば何とかなると期待した」国民も望んだ若者の犠牲 感動、熱狂…覆い隠した“劣勢”
連載「いま、特攻を考える」
「大君の楯(たて)」と墨書きされた和紙の束が、福岡県八女市の民家に残されていた。1944年11月29日、フィリピンで特攻に殉じた河島鉄蔵さん=当時(18)=の遺品の一つ。地元国民学校などの教職員ら700人以上が寄せた詩や俳句、短歌がつづられている。 【写真】「歯車になるんだ。特攻隊員をつくるのだ」と使命感に燃える教職員の心情がつづられていた“大君の楯” ≪ここにかがやかしい死がある。ここに絶対の幸福がある。日本(やまと)男(お)の子の天翔(か)ける尊き姿がある。最大の歓(よろこ)びの泉がある。清き感激の渦がある…≫ おいの信哉さん(69)は「鉄蔵さんは頭が良く、勉強熱心だったと聞いている」。特攻作戦が始まったばかりの頃で、戦死が伝わると自宅から数百メートル先まで花輪が並び、弔問客が絶えなかったと家族に伝わる。 所属した陸軍「靖国隊」は国策映画に取り上げられ、隊員たちの遺影は女性誌のグラビアを飾った。西日本新聞も「見つけた男の死所」と美談を紹介した。 「大君の楯」には、故郷から生まれた「神鷲」に続く児童を育てようと意気込み、使命感に燃えた教員たちの実像が残る。 ≪俺こそ教育界の特攻員だ。眼中に私心なし。やります。ただもくもくと≫ ≪そうだ僕は歯車だ。歯車になるんだ。特攻隊員をつくるのだ。やるぞ、やるとも、やるんだ≫ ■ 国とメディアは一体となって特攻を推進し、多くの人が若者の死に感動した。九州大の有馬学名誉教授(日本近代史)は「勝っているとばかり聞かされていた国民は、戦況の悪化にもやもやしていた。そこに特攻という壮烈な出来事が現れ、当然のように盛り上がった」と説明する。 国民を納得させ、感動を維持するためにも、特攻は続けられた。それは「決戦」の鍵を握る航空機の生産を、銃後の国民が担っていたこととも関係する。 福岡県の旧田川高等女学校4年生だった久保山哲(さとし)さん(96)は44年10月、学徒動員され、九州飛行機の工場で働いた。寮に入り、油まみれになって操縦かんのボルトを作った。 「一生懸命に飛行機を作れば、必ず神風が吹いて、日本は勝つ。そう信じていました」 ■ 45年5月25日に19歳で特攻死した熊本県出身の山下孝之さんは、遺書にこう書き残している。≪私達が沖縄決戦に参加、敵艦に突入、之を轟沈(ごうちん)せば沖縄の戦局は一変するでしょう≫ 実際には、米軍のレーダー網をかいくぐるのは容易ではなく、多くが米艦船に到達する前に撃墜された。有利な終戦に持ち込む「一撃講和」の望みは絶たれ、沖縄戦の大勢が決まっても特攻は止まらなかった。 「隊員を見送った者は後に続くと誓い、国民は特攻していれば何とかなると期待した。早い段階で戦術的な意味をなくしたのに、特攻自体が目的化し、儀礼的な行為となっていった」と有馬名誉教授は指摘する。 国民の熱狂の陰で、遺族は沈黙した。山下さんの弟の武さん(90)は「戦死の知らせを受け、母は表向きには『お国のために頑張った』と笑っていたが、『心の中で泣いている』と漏らしていた。苦しかったろう」と思いやった。 求められた「死」に、隊員はどのように向き合ったのだろうか。 (久知邦)