「ブルボン」と「ユーハイム」の原点は、関東大震災だった 「甘いお菓子が人々を笑顔に」 受け継がれる理念「災害時に役立つ企業」 #災害に備える
「お菓子は誰かのために作る。世界中のお菓子屋さんが繋がれば、お菓子は世界を平和にする力がある。人と人を繫ぐものとして、これからもお菓子を作り続けたい」 ▽スラムに届けるためAI搭載の製造機 ユーハイムのその理念は意外なものも作り出した。2020年、人工知能(AI)を搭載したバウムクーヘン用オーブン「THEO(テオ)」を発売した。AIが画像センサーで職人による生地の焼き具合を学習。自動で焼き上げることができる。 開発のきっかけは南アフリカのスラム街。河本社長が貧困層の研究者とともに訪れると、溶けたあめ玉やガムが並ぶバラックの菓子店に、大勢の人が集まっていた。誰もがニコニコとお菓子を買っていく光景に、原点を見た気がした。 できればユーハイムのお菓子も届けたいと思ったが、賞味期限がもたない。「スイッチを入れれば自動で焼き上がる機械があればいいのでは」とひらめいた。開発には成功したものの、新型コロナウイルス禍もあり、まだ海外に届けられてはいない。それでも、日本各地の人手不足の和洋菓子店から依頼を受け、貸し出しているという。
▽洋菓子が庶民の食べ物に ユーハイムが根付いたことで神戸はその後、洋菓子の街として発展していく。 日本の洋菓子の歴史に詳しい大手前大の森元伸枝准教授(地域産業)は当時の状況をこう解説する。「洋菓子は明治後期ごろから注目されたが、大正期は原材料のバターや牛乳が高価で、一部のハイカラな人が食べるものだった」 神戸は当時、外国人居留地で、日本人と外国人が互いの文化を尊重し合いながらコミュニティを形成していた。新しいものや外からの文化を受け入れる土壌があり、チョコレート菓子「モロゾフ」などの洋菓子店が集まるようになった。「ユーハイムが弟子を育て、弟子がまた店を出す。神戸が洋菓子の街へと発展し、庶民に広まるようになった」 ▽地方にお菓子を届けたい チョコレート菓子などを製造するブルボンの創業者は、故吉田吉造。実家は新潟県柏崎市の和菓子店だった。 1923年に関東大震災が起きると、首都圏の菓子工場が被災し、地方への供給が滞った。この事態を見て翌年、個人経営でビスケットの製造を始めた。