米軍が戦後日本で「核兵器」を貯蔵していたという重大証言
なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。 民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が9刷決定と話題だ。 【写真】日本兵1万人が行方不明、「硫黄島の驚きの光景…」 ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。
「メリーさんの羊」という名の核兵器
冷戦時代を迎えた米国の安全保障政策によって、遺骨収集は阻まれたことを裏付ける外交文書がある。1957年9月23日に行われた藤山愛一郎外相とジョン・フォスター・ダレス国務長官の会談記録(「藤山大臣、ダレス国務長官会談録」外務省外交史料館所蔵)だ。 1950年代当時、硫黄島を巡っては、旧島民の帰島や墓参をどうするかという問題が日米間にあった。会談ではこの問題が議題に上がった。そして、ダレス国務長官はこう述べたのだ。 〈この問題については軍に理由ありとの結論に達せざるを得なかつた。軍は混血系を(父島に)帰えしたことも失敗であつたと考えており、右はsecurity reasonに由るものである〉(原文ママ) つまり、米国側は終戦翌年の1946年に、父島への帰島を求める欧米系の旧島民の再定住を許可したが、その判断は軍事的には失敗だったと認識していたということだ。 〈security reason〉は「安全保障上の理由」を意味する。この時期は父島と硫黄島の双方に核兵器が配備されていた時期だった。安全保障とはつまり核の秘密貯蔵にほかならない。 住民がいる父島においては、米軍の思惑に反して、核貯蔵が公然の事実となってしまっていた。ロバート・D・エルドリッヂ氏は『硫黄島と小笠原をめぐる日米関係』(南方新社)で、証言に基づき、冷戦時代の父島には〈メリーさんの羊〉と名付けられた核兵器の格納庫があったと指摘した。 その上で〈島民は、何かがあると気付いていたが、それについては尋ねず、入り口の近くまで行かない方が良いということを分かっていた〉と伝えている。 活字化された最古の証言とみられるのは、1994年6月1日に新樹会が発行した新聞「新樹」の記事だ。それに〈欧米系の古老の一人〉の証言が記載されていた。 〈あの当時、米海軍の荷役の仕事はみなわれわれがやってたもんだが、たまに、今日は家から一歩も出るな、荷役はすべて軍人だけでやるというんだ。まるで戒厳令のような日だった。あれは間違いなく原爆を島に持ち込んだり、島から出したりしたとわれわれは確信したし、今でもそう思う〉
酒井 聡平(北海道新聞記者)