朝ドラ『虎に翼』寅子のモデル・三淵嘉子は「女性初」と言われることにモヤモヤしていた
■三淵嘉子は「人格者」だったのか? 嘉子本人は、女性闘士という扱いを受けるのはイヤだったようですが、もともと旧姓・武藤時代のあだ名が「ムッシュ」だったそうで(ムッシュとは、フランス語で男性への敬称)、いわゆる「ハンサムウーマン」だったのではないか、とも推察されます。 三淵嘉子という名前は、彼女の二人目の結婚相手で、元・会津藩士の先祖を持つ三淵乾太郎判事の姓名を引き継いだものです。最初の結婚相手・和田芳夫は恋愛結婚と考えてよいと思います。 しかし、芳夫は病弱なのに、太平洋戦争中に出征せざるをえなくなり、それが原因で帰国早々に亡くなってしまったのでした。彼との間に授かったのが、嘉子の息子の芳武です。 嘉子は昭和31年(1956年)、41歳の時に、9歳年上の三淵忠彦判事と再婚しましたが、当時中学生だった芳武は名前を実父の名字・和田から変えませんでした。嘉子は息子の判断を重視しました。しかし、非行少年たちにもやさしく語りかけ、家庭裁判所の「菩薩」などともいわれた嘉子も、365日24時間、人格者ではいられなかったようですね。 二回目の結婚生活は、芳武を連れた嘉子と、三淵乾太郎の4人もの連れ子たちとの共同生活になりましたが、乾太郎の長男・力(ちから)が見た嘉子は「猛女」で、長女の那珂(なか)からも「(嘉子には)継母という感覚はまったくありません」と言い切られてしまっています。 その原因は家庭での嘉子は、客観的な正しさよりも「私はこう思うから、こう振る舞うのだ」と信じたことを押し通してしまうタイプだったようで、夫の乾太郎からは「駄々っ子」とさえ呼ばれています。 しかし、裁判所では「菩薩」、一方で家庭では「駄々っ子」という落差が、逆に三淵嘉子という絶対的エリートに「人間らしさ」を与えていたようで、逆に素敵といえるかもしれません。
堀江宏樹