裁判官の「タブー」に踏み込んだ書物を批判する”飼い慣らされた”裁判官たち…裁判所上層部の「腐敗」の実態に迫る
上層部の数少ない理解者
裁判官の精神衛生、精神構造を論じるなどというのはもちろん裁判所組織においては許されないタブーであったし、審理方法の提案についても、事務総局民事局が推奨している弁論準備手続という一種の密室審理方式に反するものであったために、上層部のみならず、事務総局のいうことには一も二もなく従うのが習い性となっている裁判官たちからも、何かにつけて攻撃されたのである。 なお、民事局がこのような審理のあり方に固執する傾向の理由は明らかではないが、裁判官が法廷以外の場所で当事者から融通無碍に情報を採ることのできる方式により事件の早期処理を図りうることのメリットが、最も考えやすいものであろう。 それでも、まだ、このころには、上層部にも、私の理解者がいくらかは存在した。 私の中で、研究、教育の仕事に移りたいという気持ちが急速に強くなっていったのは、2000年前後からである。 2000年代の前半にその原稿を執筆した実務の体系的、理論的解明の書物である『民事訴訟実務と制度の焦点──実務家、研究者、法科大学院生と市民のために』(判例タイムズ社、2006年。なお、この書物を含め、私の主要専門書については、今後逐次書名を変えた改訂版の復刊を考えている)の後半の内容は、裁判所制度をも含めた司法制度論であった。 元来、裁判所当局は、事務総局の御用論文的なものを除けば、裁判官の研究も執筆も好まない。形式論理による条文解釈であればまだしも、法律論であってもオリジナリティーを打ち出すようなものは御法度であり、ましてや、当局による裁判官支配・統制のシステムに何らかの意味で触れる可能性、一般の関心を呼び起こす可能性のある制度論、すなわち、司法制度、法曹制度の仕組みやあり方に関する分析や議論は、問題外である。
裁判官中間層の疲労と劣化
法律家の精神衛生論が被った非難からも明らかなように、元々裁判所ではタブー視されている制度論を、周囲の状況が徐々に厳しくなってくる中で著すには、それを基本的には肯定しつつその改善策を説くことが限度であり、大きな制約が伴った。少なくとも制度論に関する限り、たとえていうなら、精神的な意味における共産主義社会の中で執筆しているのに近い部分があった。 もっとも、私も、その原稿を書いていた時点では、まだ、裁判官集団がもっていたはずの基本的なモラルと職業意識に、また、行われつつある司法制度改革による裁判所・裁判官制度の改善について、希望をつないでいたことも事実である。 しかし、後に記すとおり、裁判所当局は、司法制度改革の動きを無効化するのみならず、それを逆手にとって悪用し、その結果、裁判所と裁判官集団は、今世紀に入ってから、徐々に、しかし目にみえて悪くなっていった。ことに、平均的な裁判官、中間層のあり方がなし崩しに変化、悪化していったことは、私にとって大きなショックだった。 日本の裁判官が、実際にはその本質において裁判官というよりも官僚、役人でありながら、行政官僚よりは信頼されてきた大きな理由は、平均的な裁判官、中間層が、たとえ保守的であり、考え方や視野は狭くとも、少なくとも、日々誠実にこつこつと仕事をし、たとえば行政訴訟や憲法訴訟といった類型の事件を除いた日常的な事件に関する限りは、当事者の言い分にもそれなりに耳を傾けてきたからである。 つまり、職人タイプの裁判官が日本の裁判の質を支えていたわけである。しかし、上層部の劣化、腐敗(その詳細については後に論じる)に伴い、そのような中間層も、疲労し、やる気を失い、あからさまな事大主義、事なかれ主義に陥っていったのである。 『裁判官時代の立場はまるで「共産主義下の知識人」…都合の悪い人間を排除する組織の「闇」に耐えかねて裁判官を辞めるまで』へ続く 日本を震撼させた衝撃の名著『絶望の裁判所』から10年。元エリート判事にして法学の権威として知られる瀬木比呂志氏の新作、『現代日本人の法意識』が刊行されます。 「同性婚は認められるべきか?」「共同親権は適切か?」「冤罪を生み続ける『人質司法』はこのままでよいのか?」「死刑制度は許されるのか?」 これら難問を解き明かす共通の「鍵」は、日本人が意識していない自らの「法意識」にあります。法と社会、理論と実務を知り尽くした瀬木氏が日本人の深層心理に迫ります。
瀬木 比呂志(明治大学教授・元裁判官)