「満州引き揚げ」の悲劇…ソ連兵が土足で上がり込み姉に銃を突き付け…船の甲板から捨てられる男の子の遺体
甲板から捨てられる子供の遺体
坂口康子さん: いつも私の隣に(ある)男の子がいた。もうがい骨ですよ。骨と皮。ある日、目を覚ましたら亡くなっていたんですね。そしたら大人の人が抱えて、甲板の上から(遺体を)捨てるんですね。悲しいけど、どうしようもないんですよ 船内でも次々に失われる命。船は出港から5日ほどで舞鶴に到着した。坂口さんは「舞鶴に着いて“食事とお風呂”と言われた時、『あぁ日本に着いたんだ』と思い、ほっとした」と帰国時の心境を語る。
父親は“シベリア抑留”で死亡
しかし、シベリアに抑留された父、新三さんの消息は依然として分からなかった。父親の行方が明らかになるまで45年を要することになる。 坂口康子さん: 平成3年(1991年)、(当時のソ連大統領)ゴルバチョフが初来日した時、6万人近い抑留者の名簿が新聞で公開された。その中に父の名前を見つけた。シベリアのビラというところで父は昭和22年(1947年)に亡くなっていた シベリアに抑留された約57万5千人のうち5万5千人は祖国の土を踏むことはできなかった。 戦後47年の1992年9月、坂口さんはシベリア抑留者の遺族、約30人と共にシベリアに向かう。いわゆる“シベリア墓参”だ。 坂口康子さん: 新潟空港から(飛行機に)乗っていった。バスから降りてちょっと歩いたところに白木の墓標が立っていた。『一緒に日本に帰りましょう、あなたたちのことは1人でも多くの方に伝えます』とそこで誓った
戦争の狂気と恐怖を語り続ける
坂口さんは夫が他界した2023年の夏、戦時中の体験などをつづった本「蟻のなみだ」を自費で出版した。引き揚げ、戦争、シベリア墓参。坂口さん自身が体験したことを書いたものだ。 坂口さんは出版した300冊すべてを知人などに無償で配布。「父の供養のつもりで差し上げた」と坂口さんは話す。 出版をきっかけに坂口さんには講演の依頼がくるようになった。老人会などで話す機会がほとんどだったが、2024年7月には佐賀市の中学校で戦争を知らない世代に平和への思いを伝えた。 終戦から79年。坂口さんを突き動かすのは戦争で命を落とした人たちへの慰霊への思いだ。 坂口康子さん: 生きる喜び。生きる権利。何もかもを奪う恐ろしい狂気。それが戦争なのです。今ふつうに暮らしているのがどんなに幸せなことか、それを知ってほしい (サガテレビ)
サガテレビ