「楽屋に行ったら、女の子がみんな素っ裸」マギー司郎、そこから始まった“僕の手品師人生”
黄色いタキシード姿の男性が手に持つのは、白地に赤いしま模様のハンカチ1枚。茨城のお国訛りのどことなく親しみを感じさせるアクセントで、こんなふうにしゃべり出す。 【写真】『お笑いスタ誕』で人気者となり、テレビに出始めたころのマギー司郎
⼿品師・マギー司郎の鉄板ネタ
「縦じまのハンカチがあります。表も裏も縦じまです。この縦じまのハンカチを手の中に入れて、軽くもむんですよ。そうするとこれが一瞬にして、横じまになるんですよ」 いわゆる“縦じま横じま”と呼ばれるネタだ。 何がどうなるか、観客はすべてお見通し。でも、同じ芸を何度見ても、そのたびに観客は思わず、反射的に笑ってしまう。 「これで何で笑うのかわからない」と本人は真顔で首をひねるが、作為がないこと、つまりはわざとらしさがないところが、おかしみに連なる。 男性の名はマギー司郎。今年3月に78歳になったベテラン手品師である。二十歳のころに足を踏み入れたマジックの世界を、長い間ひょうひょうと生き抜いてきた。 「たいしたことはやってないんですよ。世間のゆとりの部分で生かしてもらっているのが芸人。ただただ、笑ってもらうのがうれしいんですよ。 今78歳でしょう。年取っててよかったなと思いますよ。今ごろ50代だったら、色気とかもあって危なかったかもしれない。今ね、いちばん好きなのが舞台。お金もいただけるし、お客さんが喜んでくれる。こんないいことない。お金を僕にくれる方が『ありがとうございます』って言ってくれるんだから」 58年間、通算の高座数は本人調べで約2万5000回。「舞台を休んだことは1回もない」という芸人人生をひもとく。
3畳一間にマギー司郎誕生の原点が
東京・池袋の3畳一間、ガス、トイレ、水道は共同の風呂なしアパート。日当たりは悪くないそこがねぐらだった。 「家賃4500円というのは覚えています。昭和30年代の後半。バーやキャバレーで働いていて、給料は月に1万円くらい。晩飯は店で食べさせてもらえたので、食えていましたね」とマギー司郎は、本名・野澤司郎青年の十九、二十歳のころを振り返る。 その部屋の片隅に、少しずつ、少しずつ積み上がり、気がつくと結構なスペースを占めていたのが手品道具だった。 「仕事は夜だから、昼間、結構暇でしょ。上野の『鈴本演芸場』に足を運んでアダチ龍光先生のマジックを見ていたので、芸事は好きだったんでしょうね。ある日、雑誌に『あなたもマジックを習って、プロのマジシャンになりませんか』っていう日本奇術連盟の広告が載っていて、週に何回かそこに通うようになったんです。今でいうカルチャーセンターですよ。 若き日のMr.マリックさんや先代の引田天功さんもいましたね。教室に行くとその都度、何か道具を買わされる。積み上がっていくそれらを見ながら、『これでなんか生活をやっていけたらな』って」 マギー司郎誕生の原点が、ここにあった。 当時の電話帳には芸能社、今でいうところの芸能プロダクションに近い興行社の連絡先がずらりと掲載されていた。赤電話に10円玉を入れ、司郎青年はダイヤルを回す(当時はプッシュホン登場前)。 電話口で、茨城アクセントのつたない表現で売り込みをする司郎青年に、東京・巣鴨にあった芸能社が「ネタ見せにいらっしゃい」と言ってくれた。部屋にある手品道具を持ち、ネタ見せに行くと見事合格! チャンスのしっぽをつかんだ。本名はちょっと堅いから、という理由で「ジミー司」という芸名もつけてもらった。 「しばらくしたら電報が来たんです。僕が電話を引いてないので電報。『○月○日から○日まで、どこどこで仕事』という感じで依頼が来ました。 最初の仕事先は、京浜急行の生麦駅前にあった『生麦ミュージック劇場』。ミュージック劇場だからライブハウスみたいなところかなと思っていたら、駅を降りたら目の前に、色っぽい踊り子のでっかい看板がありました」 楽屋に通された。夏だった。今のようにエアコンはなく、映画館も出入り口の扉を開けて営業していた時代。 「楽屋に行ったら、女の子がみんな素っ裸。ライブハウスだと思っていたから、ワケがわからない。ストリップ劇場だったんです。そこから僕の、手品師としての人生がね、始まったのね」