世界チャンピオンに0.014秒届かなかった、新世代のレジェンドライダー、中野真矢|オートバイレースライダー レジェンドファイル
80年代から90年半ばまでAMAスーパーバイクや世界GP(現Moto GP)で活躍したハチマル世代のレジェンドライダーたちを紹介するオートバイレースライダー レジェンドファイル。 【画像24枚】2007年に移籍したホンダのサテライトチーム「コニカミノルタ・ホンダ」のカラーリングで販売されたCBR600RR。限定数販売で、中野真矢にはフレームナンバー56が与えられた 今回は21歳で世界GPにデビュー、11年に渡って世界の第一線で活躍した中野真矢さんが登場。 現在は若手ライダーの育成やモーターサイクルアパレル「56design」をプロデュースする中野さんの現役当時の思い出などをうかがった。 中野真矢を語る際、つい口に出てしまうのが「新世代ライダー」という言葉だ。それまでの日本のライダーは常に「世界への挑戦」がテーマだった。しかし、1990年代に入ると若井伸之、上田昇、坂田和人、原田哲也、岡田忠之、青木三兄弟を中心に日本人ライダーが世界のトップ争いを始める。スペイン人、イタリア人、日本人を中心に世界中のさまざまな国のライダーが活躍。 GPマシンも日本の4メーカーだけでなくドゥカティ、アプリリアが台頭。2ストから4ストへの移行も重なり、GPレースは混とんとしていた。 そんな90年代の最後の年、世界の舞台へと上がってきたのが中野真矢だった。それまでの日本人が世界への挑戦的な意味合いで世界GPに出場していたが、中野の場合は98年全日本ロードレース選手権GP250において圧倒的な成績を残し、当然の流れで世界へと戦いの場所を変えたという雰囲気。その端正な顔立ちと当たり前のように世界へと飛び出した若きライダーに、今までとは違う雰囲気を感じ、我々は「新世代ライダー」と呼ぶことに。 それまでの日本代表的な気負った感じもなく、いちライダーとして淡々と勝利を重ね、99年初の世界GP250で総合4位を獲得。ルーキーオブザイヤーを獲得した。翌2000年にはチームメイトのオリビエ・ジャック、故・加藤大治郎とシリーズチャンピオンを争い、最終戦ゴール寸前でオリビエにかわされチャンピオンを逃してしまう。 「この時、背筋に冷たいものが走るという感覚を初めて覚えました」とつい先日の出来事のように中野は語ってくれた。中野がもっとも世界一に近づいた瞬間であり、このレースこそが彼をレジェンドと呼ぶ理由でもあるのだ。 2001年からはGP500クラスに変更。総合5位で500クラスでもルーキーオブザイヤーを獲得。次の年からは4ストのMoto GPとなりマシンも途中からM1へと変わる。感覚的には遅いが記録上はタイムが出る。この感覚に翌年まで悩み続けることになる。そしてその結論が2004年のカワサキへの移籍。 これだけのビッグネームである中野がMoto GPクラスに参入して間もないチームへの移籍は衝撃だった。 「実はMoto GPマシンに悩んでいて、いちから開発に加わることのできるカワサキが魅力的でした」と中野。 移籍1年目からその実力を発揮し、表彰台も獲得。この表彰台が皆に喜ばれたと中野はうれしそうに語る。中野がライダーとしてだけでなく、高いマシン開発能力を持つことが証明されたカワサキへの移籍だったのである。 その後2007年にホンダへ移籍。この時のマシンであるRC212Vと同じカラーリングで販売されたのが前ページに掲載したCBR600RR。翌年は安定した走りを見せ総合9位を獲得するも、2009年におったけがの影響で引退。引退会見を行ったこともライダーとしては初めてで、ここでも「新世代ライダー」を感じさせた。 引退直前の2008年にスタートした「56design」ブランドの旗艦店としてショールームが2023年にオープン。隣接するレストラン「フィオレット」とともに中野真矢の次の展開が楽しみな昨今。 バイクレーサーとしてではなく、別の形でのバイクへの関わりが彼の魅力をさらに引き立てている。 1999年から続くカー&バイクライフ番組「FMドライバーズミーティング」パーソナリティーであるレーサー鹿島と中野真矢のトークは3月31日(日)と4月7日(日)に放送される予定だ。放送 〇TJS@ロサンゼルス:日本時間 3月31日(日)&4月7日(日)12:00~ 公式サイトから、PCやスマートフォンで世界中からフリーで聴くことが可能 ○radiko.jp / 静岡K-MIX / FM山口:3月31日&4月7日(日)18:00~ radiko.jpのエリアフリー「静岡K-MIX」から全国で聴取可能
Nosweb 編集部