【追悼】「股割を泣きながら…」元横綱・曙さん逝去で思い出す、明かしていた「相撲界いじめの構造」
史上初の外国人横綱になった曙太郎さんが亡くなっていた。54歳という若さだった。 ’88年春場所で初土俵。同期入門で話題になった貴乃花、若乃花兄弟とのライバル対決で人気になり、4人掛けのマス席が土産付きで40万円を超えた時代だった。 【貴重】すごい!部屋の祝勝会でダンサーと踊る陽気な若き頃の曙関…! その相撲ブームを巻き起こした一人が、64代横綱の曙さんだった。 貴乃花さんとは生涯21勝21敗、若乃花さんとは18勝17敗という成績を残していて、まさに力関係は五分五分。その激闘史は、今も語り継がれている。 優勝回数も11回。ハワイの大学でバスケットボールをしていたようだが、コーチとのそりが合わずに3ヵ月で中退。その大きな体を東関親方(元関脇・高見山)に認められスカウトされた。 ’93年に横綱に上り詰めると、’01年に引退。曙親方として日本相撲協会に残るが、’03年11月には協会を退職して格闘技の世界に進むことになる。 プロレスラーになっていた曙さんに、当時、相撲協会で大問題になっていた弟子たちへのいじめ問題を質問したことがあった。曙さんは 「力士になった頃は股割が上手にできずに、土俵の横で足を広げて稽古していると、力士たちが次々に乗りかかってくる。涙が出るほど痛かったです。でも、それをクリアできないとケガをすると言われていたので、泣きながらしました」 と、言っていた。 「土俵から落ちた時に、“股割ができていない力士は大ケガをする”と言われていたし、みんな必死で股割をしていました」 とも。ただ、その激しさが、いじめ問題になっているとも言っていた。 それほど、激しい稽古を積み重ねて掴んだ横綱の地位。貴乃花さんが「百折不撓の人生観」と表現するように何度挫折しても、くじけない人生観を持っていたのだろう。 「いまの若い力士たちは、すぐにいじめだと感じて、実家に逃げ帰っています。私は、反対されてハワイから日本に来たという環境だったかもしれませんが、帰れる場所は無かった」 と、話してくれた曙さんは、ポツリと 「強い力士ができなくなった背景には、厳しい稽古がいじめと言われる時代になったからですよ」 と話してくれたことが忘れられない。 そんな曙さんだが、信じられないぐらいに優しい一面もあったようだ。 貴乃花さんとの勝負で受け取った懸賞金を、その日のうちに「知らないホームレスに手渡して」しまったことも。それが、金銭感覚がないと相撲協会から言われ、部屋を持てなかった原因と噂になったが、実際は分からない。 格闘技に転向してからは、「勝てない曙」と言われ、「マケボノ」と軽蔑された。しかし、彼をプロレスに引き込んだプロレスラーの武藤敬司さんは 「オレも天才だが、曙はホントの天才」 と評価している。 「相撲をしていたので前回りの受け身はできるが、後ろの受け身ができていない」 と、話していた曙さん。力士になった頃を思い出すかのように、「連日猛特訓を行っていた」と言う格闘技関係者もいた。 若貴とともに、あの輝かしい相撲ブーム作った一人である曙さん。記録と記憶に残る人だったな……合掌。 文 :石川敏男(芸能レポーター) ‘46年生まれ、東京都出身。松竹宣伝部→女性誌記者→芸能レポーターという異色の経歴の持ち主。『ザ・ワイド』『情報ライブ ミヤネ屋』(ともに日本テレビ系)などで活躍後、現在は『めんたいワイド』(福岡放送)、『す・またん』(読売テレビ)、レインボータウンFMにレギュラー出演中
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