風船爆弾とキノコ雲(8月18日)
8月は戦争に思いを馳せる季節だ。毎年様々な報道や催しが行われるが、そこで常に最重要課題となるのが〝継承〟だ。 いわき市勿来関文学歴史館では企画展「語り伝えたい記憶~風船爆弾と学徒動員~」が開催中だ。第二次大戦末期、気球に焼夷弾を積んだ兵器〝風船爆弾〟は、いわき市勿来町など太平洋岸の3カ所から米国に向けて約九千個が放たれ、約千個が到達した結果、6人の人的被害をもたらした。 郡山市では核兵器廃絶都市宣言40周年記念「ヒロシマ原爆・平和展」が開催された。広島平和記念資料館に所蔵されている被爆資料など、貴重な実物の展示以上に関心を引いたのが、広島の高校生が被爆体験証言者と共同して、証言者の記憶に残る被爆時の光景を描いた「原爆の絵」だ。 観る者に幾ばくかの追体験を促すその画力もさることながら、絵を制作する過程で、被爆者と丁寧なコミュニケーションを重ね、高校生が想像力を働かせながら追体験する作業は、優れた継承のモデルの一つだと言えるだろう。
さて、長崎に投下された原爆〝ファットマン〟に使用されたプルトニウムの生産拠点であったハンフォード・サイトに隣接する〝原爆をつくるために生まれた町〟リッチランドは、キノコ雲がモチーフの高校の校章でも知られる。 現在公開中のドキュメンタリー映画『リッチランド』の中で語られる「(キノコ雲は)殺人のシンボルではなくこの町の業績」「キノコ雲はわが町の誇り」などの言葉は、日本人には容易に受け入れ難い。しかし、それについても「戦争を始めたお前たちの言うことか?」と言い放つ。 ただ考えてみれば、敗戦国において「繰り返してはいけない/苦い記憶」が、戦勝国においてもそうである道理はない。そもそも彼らの〝戦勝記念日〟は9月であり、そこには想像以上の深い溝が存在する。つまり〝キノコ雲〟は、「誇るべき記憶」が確かに継承されている証左に他ならない。 風船爆弾を実際に見た証言者は、いくつもの風船が西日を浴びて海に浮かぶ姿を〝きれい〟だったと語った。実際にハンフォードの送電線を切断し、一時的に工場を停止させたという風船爆弾が、もし大量破壊兵器を積んだ超高性能無人機だったら、いわき市の高校の校章に風船があしらわれる世界線があったかもしれない。
戦争も災害も、継承が未来への道標となることは疑いない。しかし、継承の結果が国際関係の足かせともなり、時に差別やヘイト、そして戦争を生むことも事実だ。その深い溝に一縷の望みを見出すなら、次世代への複層的、相対的な継承を実践するよりほかない。 今夏短期研修でハンフォードから来県した学生は広島、長崎も視察し帰国の途に就いた。彼らが何かを感じ、持ち帰る。そうした積み重ねもその試みの一つだろう。(福迫昌之 東日本国際大学副学長)