万葉集は英訳のほうが分かりやすいのはなぜか?…古代から現代、日本から世界に羽ばたく「世界文学としての和歌」
翻訳、国境、ジェンダー、身分、言語……を超える『万葉集』。上野誠・國學院大學教授[特別専任]と
翻訳家のピーター・J・マクミラン氏に本誌編集委員の張競・明治大学教授が聞く。『アステイオン』99号特集より「境界を往還する万葉集」を3回にわけて転載。 【写真】清水浜臣(1776-1824)『万葉集』 ■文化の受容と自国の文化 ●上野 文化の受容というのは、受容する側の文化の問題でもあるわけです。森鷗外が、「あなたはよくこれだけのすばらしい翻訳ができますね」と言われて、「それは日本語についてよく知っているからだ」と答えたという話がありますね。 マクミランさんは『万葉集』を英訳するとき、「これは英語の詩の伝統ではどういうふうに言うだろう」とか「ソネットの形式に近い形で訳そうかな」などと考えたりしますか。 私は、『万葉集』の注釈を進める際、ドナルド・キーンさんに相談に行きました。キーン先生は「日本人が書いた『万葉集』の注釈書の訳は訳じゃない。説明文です。説明文は要らないです」と言うのです。 そして、「詩は詩として訳さなきゃ駄目。読んだときに詩になっているかどうかが問題です」と厳しく言われました。ああ、そうかと思った。 張先生は、中国で古典教育をする際、現代の中国語に訳す必要はありますか。 ●張 書かれた時代によりますね。李白の「静夜思(せいやし)」のように、唐詩には訳さなくてもわかるものがあります。その美しさは現代人にも響いてくるのです。大半は現代中国語に訳さないと、わかりません。 ●上野 唐詩の形式は、作品によってはその美しさが今でもわかるのですね。『万葉集』の場合は、訳がまったくなくて済むものは5%ぐらいじゃないでしょうか。 マクミランさんも、いったん日本語の注釈を読んでから英訳するわけですよね。例えばオペラも、今のイタリアの人が聞いてわかるわけではなく、ちょうど歌舞伎のように、オペラ座で売っている台本を見ながら観劇していますね。 マクミラン 先ほどのミサの話もそうです。私が子供の頃はまだラテン語が普通でした。バチカン公会議後にすべて英語や各国の現代語になりましたが、今はまたラテン語で聞きたいという声があります。意味がわからないとかえって厳かに聞こえるからでしょう。 ●上野 マクミランさんが翻訳されている日本のさまざまな古典の英訳は、英語の文学関係者、英語の文学を勉強する人たちの財産になっていくだろうと思います。 『万葉集』についても、それ自体は中国の影響を受けて作られたものですが、『古今和歌集』はその『万葉集』を財産にしてできたのですから。文化とは、そういうものだと思うんです。 ●マクミラン はい。でも、日本の歌の英訳は日本人の財産にもなっていくと思っています。現代の日本人は原文を読めませんから。もちろん日本語の現代語訳も読めますが、英語でも読めますね。 そういう意味で比較すると、英訳するのはとても困難なことですが、現代日本語に訳すほうがはるかに大きな苦労があると思います。 なぜなら現代日本語は根本的に詩的でないからです。『小倉百人一首』の現代語訳を読んでいると、それがたとえキーン先生の言う「説明文」でなくても、詩的に感じにくい面があります。 私はかつて日本の古典を訳してキーン先生から褒めていただき、賞をいただきまし。それで翻訳の免許をもらった気分になり、「日本の古典を英訳すればこの素晴らしい国に恩返しができる」と感じました。 ところが『万葉集』に出会ったら、「『万葉集』の英訳は日本への恩返しどころか世界のためになる」という気持ちになりました。それほどまでに『万葉集』のすごさを感じたんですね。 『万葉集』には、私たちが持っている文学にない要素がたくさんありますし、その歌には生まれたての新鮮味を感じます。ですから、私も「今朝書かれた歌のように訳したい」と思っています。 ●上野 ああ、「今朝書かれた歌のように」ね。すばらしい──。 ●張 僕は『万葉集』の中国語訳を読むと、『万葉集』の精神はあるかもしれないけれども、日本の『万葉集』とは別の『万葉集』になっていると感じます。中国の古典語に訳されているからでしょう。英語圏で『万葉集』を中世英語で翻訳しようとする人はいないですか。 ●マクミラン それはないですね。明治時代に最初に英訳されたものは『百人一首』で、いわば文語体でした。当時流行していた例えばテニスンのような、それこそキーン先生が好きだったきれいな言葉になっています。 ●上野 違和感がありますか。 ●マクミラン ありますね。なぜ素直に書かないのかなと。中世の英語に訳したら現代のイギリス人は読めません。現代人はシェイクスピアの英語も18世紀の英語もほとんど読めませんから、読んでほしくないのであれば中世の英語に訳しなさい、ということになりますね。 上野先生が現代語訳で目指しているのは、わかりやすさですか。 ●上野 基本的には、耳で聞いてわかるように訳したい。そして、キーン先生に言われたように、詩になっているように訳したいとは、思っているのですが──。 ■吟じられる英語に訳して世界に ●マクミラン このあいだ、ある歌を「あなたが去年出会った桜、恋していた桜がまた咲きましたよ」というふうに訳そうとしたら、一緒に翻訳をしている茂野智大さんが「あなたが出会った桜じゃない。桜があなたに出会ったんだ。主語は桜。桜があなたに出会って、あなたに恋をして、あなたのためにまた咲いていますよ、という意味だ」と教えてくれました。 それでは全然違うじゃないですか。自然を擬人化するということですね。英語でも擬人化しますよ。例えばワーズワースの「I Wandered Lonely as a Cloud.(私は雲のようにさまよった)」。 この場合、ある人が外にある自然を見ています。でも、今言った『万葉集』の歌は「桜の木が人間に恋をしている」というのです。 ●上野 擬人法とか擬人化と言うと特別に思いがちですが、それは「物は主語にならない」ことを前提としているからで、「物が主語になる」ところでは擬人化は普通です。 面白い例があります。持統天皇の「春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天の香具山」(『万葉集』巻一の二八)。 最近の研究では、この訳は「春が過ぎて夏がやってきたらしい。天の香具山には白妙の衣が干されている」ではなくて、「天の香具山が衣を干している」でいい、というんです(鉄野昌弘「万葉研究、読みの深まり(?)─持統天皇御製歌の解釈をめぐって─」『季刊 明日香風』第百二号所収、飛鳥保存財団、2007年)。 「山が衣を干す」でいいと。 ●マクミラン 先生はどう思われますか。 ●上野 それでいいと思います。少なくとも中世にはそう解釈されていた。詩の言語というのは人間の歴史の古い思考法を伝えているものだから、「天の香具山が干している」でいいと。詩には確かに古いものを伝えるという側面がある。これもトランスボーダーですね。 ●マクミラン 美しいですね。そのほうが絶対に素敵だと思う。ちょっとパフォーマンスをします。持統天皇の歌を「香具山自身が衣を干す」というふうに即興で訳し直しました。吟じます。 Spring has passed and Summer has come. Mount Kagu is airing on her slopes her white summer robes. 藤原俊成が言ったように、発声したときの音とリズム感でその良さが感じられるような歌に訳す、ということを私は心がけています。 『百人一首』の歌は単純な自然の描写が多く、英訳してみると平凡な歌なのに、日本語で吟じると素晴らしく聞こえるものがありますね。 ●張 和歌を五・七・五のままに五音節・七音節・五音節という英語に訳すと、逆に美しくない、ということですか。 ●マクミラン 美しくないことはないと思いますし、反対するわけでもありません。ただ、七五調では私たちの心地よいリズムにはなりません。 明治時代に上田敏がブラウニングの詩を七五調で和訳しました。そして、それはすごく美しい。英語を日本語に訳すなら七五調がベストかもしれません。だから今でもカルタがあるのだと思います。 でも、逆の場合もそうなのかということなんです。それで私は、どんな歌も「英語でも吟じられるように訳そう」と思っているのです。 ●上野 マクミランさんは今、英訳『百人一首』のカルタ大会というイベントをやっていますね。 ●マクミラン はい。カルタも現代の国内・海外に『万葉集』や和歌を広めていく切り口の1つですから。 ●上野 世界大会には、ファン・ロンパイ元欧州理事会議長を呼んでほしいですね。彼は英俳をやっていて、きらっと光るものを俳句で詠んでいますから。 ●張 日本の和歌や『万葉集』のトランスボーダーの可能性を感じますね。 ●上野 日本語しかできず、一番トランスボーダーではない私は、「古い言葉とトランスボーダーしている」ことで呼んでいただいたということになるでしょうかねぇ(笑)。 ●マクミラン いろいろ勉強になりました。 ●張 本日は、『万葉集』の持つトランスボーダー的な要素についてさまざまな角度からお話しいただきました。たいへんありがとうございました。
上野誠 + ピーター・J・マクミラン + 張競(構成:置塩文)