「美をつむぎだす手を持つ人」美輪明宏から称えられた華道家・假屋崎省吾の“生き甲斐”
人生の師匠とする美輪明宏さんへの思い
本人は、自らテレビから遠ざかり、今はブログをはじめとしたSNS、そして直接的にファンと触れ合える現場へと軸足を完全に移している。 「今はYouTubeもあるし、インスタのライブなんかもあるし、こっちのほうが自由に発信できて、もっと身近に触れ合える感じだし」 そう、若い人にとっては、テレビでなくてもカーリーの姿は見えて話も聞ける。若い人はテレビより、スマホの中のカーリーがリアルなのだ。 そしてテレビをよく見ていた世代としては、あまりにもカーリーの存在感、インパクトが強くて、いまだに先日テレビで見ました、と言ってしまうのだ。 現実のカーリーを目の当たりにすると、テレビによく出ていたころと見た目にほとんど変化がない、というのもある。金色に染めていた髪は、染料が染みて傷むのを気にして、ナチュラルなシルバーに変えたそうだが。 「今日は季節の花である、藤や小手毬を持ってきました」 わかりやすい解説と、軽妙な語り口。何よりも、花への愛。華道のそれではないが、人生の師匠という俳優・美輪明宏さんの、カーリーへの言葉が今、観る人たちの目の前に展開されていく。
美をつむぎだす手にあるたおやかさと力強さ
「美をつむぎだす手を持つ人」 これほどまでにカーリーを称える形容はなく、これほどまでにぴたりと当てはまる表現もない。言われた御方もすごければ、言った御方もすごい。 英雄は英雄を知る。達人は達人を知る。御両人の美学はまったく同じでなくても、かなりのところが重なるがゆえの、これもまた奇跡のコラボレーションだ。 カーリーのその手は美を繊細につむぎだしながらも、美に向かってつかみ取ろうとする強い力も秘めている。美輪様の歌や芝居にも、優美と野性が共存しているように。 旧岩崎邸の花の中にも、太い木を組み合わせた土台の、いけばなのイメージとは違う、もはや建築物、造形物といっていい作品がある。 「土台だけは、アルバイトも含めて10人くらいで材料を運んでもらい、そのあと1本1本、私が角度や位置を決めて組み立てます」 いけばなといえばどうしても、たおやかで繊細なものをイメージしてしまうが、こんな力強い土木工事みたいな基礎に造られたものを目の当たりにすると、これもまさにカーリーと圧倒される。 美をつむぐ手の元には、たくましく力強い腕がある。優しい語り口の土台には、確固たる信念がある。 「旧岩崎邸、ここも重要文化財だから、展示に当たっては制約がいっぱいあります。でも、その中で美を追求していくっていうのがおもしろい」 お弟子さんたちの作品も飾られていて、それも見事であった。ただ、おこがましいし失礼にもなってしまうかもしれないが、派手な蕾といった風情。咲きあぐねている花弁もある。そこが、可能性や将来性を暗示もする。 美の追求というよりは、まだ自分の表現したい気持ちが真っ先に来ていて、師匠の軽やかな満開の花々の前では、蕾は固い。 旧岩崎邸での感想は、SNSでも多く見られる。 《繊細で大胆な色彩感覚、假屋崎さんでなければと思わせる》 《御本人が、花は景色を作るとおっしゃっていた。調和させるのが本当に上手い》 《景色と溶け合いながら、花そのものに物語が感じられる》 芸術とは、ある程度の美意識が備わった人間でないと理解できないし衝撃も受けないという考えと、芸術とは子どもにでもわかる、ただ美しいものであるという考えと、どちらも正しいのだとカーリーが教えてくれる。 「日本の伝統文化の華道の本質は、そのときそのときの生きている生命体から、新しい美を生み出しながら、作り出す。それは私の天命です」