「君が代」が明治時代に急速に普及した「驚きの理由」
神武天皇、教育勅語、万世一系、八紘一宇……。私たち日本人は、「戦前の日本」を知る上で重要なこれらの言葉を、どこまで理解できているでしょうか? 【写真】「君が代」が明治時代に急速に普及した「驚きの理由」 右派は「美しい国」だと誇り、左派は「暗黒の時代」として恐れる。さまざまな見方がされる「戦前日本」の本当の姿を理解することは、日本人に必須の教養と言えます。 歴史研究者・辻田真佐憲氏が、「戦前とは何だったのか?」をわかりやすく解説します。 ※本記事は辻田真佐憲『「戦前」の正体』(講談社現代新書、2023年)から抜粋・編集したものです。
「君が代」はなぜ普及したか
ちなみに現国歌「君が代」は海軍省と宮内省の主導でつくられ、1880(明治13)年10月にはじめて披露、そしてこのような小学校の儀式を通じて広く普及した。 よく知られるようにこの歌は、1999(平成11)年8月まで国歌として法制化されていなかった。 「君が代」の地位はかならずしも安泰ではなく、明治初期には陸軍省や文部省で別の国歌作成が検討されてもいた。暗すぎるので、もう少し明るい歌がほしいという声まであった。 にもかかわらず、「君が代」が事実上の国歌として定着できたのは、義務教育で教えられていたからだった。レコードも、ラジオも、テレビも、インターネットもない時代、すべてのこどもが通過する小学校の儀式の場は、比類なき影響力をもっていたのである。
花より団子と「楽しいプロパガンダ」
では、戦前の児童たちはわざわざ休日に学校に呼び出されて、楽しくもない式典に参加させられていたのをどう感じていたのか。 当時の記録を読むと、式典の最後には紅白饅頭などの茶菓が配られることが多かった。児童の多くはこれを楽しみに、学校に馳せ参じていたらしい。 このころ、甘いものはたいへん貴重だった。 花より団子だが、それでも式典に参加した以上、なんらかの教えは多少なりとも注入されたことだろう。 まさに娯楽を通じた国民の教化。 筆者はこのような試みを「楽しいプロパガンダ」と呼んでいるが、その無意識下に与える影響はけっして侮れない。 さらに連載記事<戦前の日本は「美しい国」か、それとも「暗黒の時代」か…日本人が意外と知らない「敗戦前の日本」の「ほんとうの真実」>では「戦前の日本」の知られざる真実をわかりやすく解説しています。ぜひご覧ください。
辻田 真佐憲(文筆家・近現代史研究者)