元水俣市長・吉井正澄さん 最期のメッセージに託した思い 今こそ読まれるべき責任認めた1994年の「決断の式辞」
5月31日に92歳で亡くなった元水俣市長、吉井正澄さんのご家族が西日本新聞水俣支局を訪ねてこられたのは、吉井さんが入院する2日前、同14日だった。 【写真】「水俣病問題に係る懇談会」委員として記者会見する吉井正澄さん=2006年9月、東京 差し出された封書の中身は「小さな蛮勇最終回」と題した手記。吉井さんが本紙に寄せた熊本県版コラム(2020年11月~21年9月)の“番外編”だった。 手記には、1994年の水俣病犠牲者慰霊式の市長式辞で、行政として初めて水俣病の責任を認めるに至った裏話から、今なお全面解決できていないことへの憂い、若い世代への期待まで、A4紙6枚にびっしりつづられていた。抗がん剤治療中の苦しい病床から、親しかった人々に最期のメッセージとして送ったという。 「最終回」の文末の日付は5月1日。くしくもこの日、環境相との懇談で水俣病被害者の発言が遮断される問題が起きた。吉井さんの「決断の式辞」からちょうど30年目の日だった。 この問題について、吉井さんはどう感じただろう。ご家族を通じて取材を打診したが、体力面を考慮して辞退された。「水俣病問題が全面解決したらインタビューしますので元気になってください」と伝えると、笑っていたという。 取材はかなわなかったが、遺稿となった「小さな蛮勇」の一部を紹介したい。併せて、水俣病問題に関わる全ての政治家や官僚ら行政関係者はいま一度、「決断の式辞」を読み返すべきだと思う。(水俣支局・古川剛光) ◆ ◆ 水俣病犠牲者慰霊式の案内状が届いた。本年は31回目だが体調が悪いので欠席を届けた。 1992年、水俣市の岡田稔久市長(当時)は市議会で市主催の「水俣病犠牲者慰霊式」を開催したいと表明された。執行部と議会が論議して実行した。患者団体は「患者抜きの官製慰霊式」と皮肉って不参加。実際、国と県、市と一般市民だけのいびつな式となっていた。会場には犠牲者の家族の姿はほとんど見えなかった。 私は94年2月、市長に就任し同年の第3回慰霊式から主催者としてかかわることになった。1、2回目の“失敗”を重く受け止め、決して失敗してはならないと固く心に決めた。患者団体をはじめ関係者の意見を十分に聞き実行すべきだと考え、早速話し合いを始めた。 慰霊式は犠牲者の鎮魂や供養のためだけではなく、市政の根幹にかかわるものであり、今後の水俣病問題の行方を左右する重要なものであると認識していた。 人間の社会では、常に大きな災害や戦争などが起きて多くの犠牲者が出る。そのたびに人々は集って犠牲者を追悼し、以後の平穏を誓う。ところが、人間が起こした水俣病公害は、発生から約40年も経過したのに慰霊の「慰」の字も出なかった。そればかりか市民同士がお互いに誹謗(ひぼう)中傷合戦に明け暮れてきたのは誠に残念であった。 私は、かなり以前から考えていた。水俣病によって不幸にも犠牲になられた方々は、同じ市民として喜怒哀楽を共にしていた人たちである。その不幸を哀れみ、死を追悼し、ご冥福を祈り、その後の安全や復興の支援などを誓う慰霊式を一刻も早く実現すべきだ、と。 人間という弱い生物が世界の生物の頂点にいて連綿と生き残ってきたのは、慰霊式などを通して近隣、同胞との連帯感を常に確認し続けてきたからである。 このような私見に加え、患者補償も原因企業チッソの再建も、疲弊した地域の再建も「慰霊式の開催から始まるのではないか」と犠牲者のご遺族に話すと、すべての方々が賛同なされた。 大方の患者団体の内諾を得た私は、さらに慰霊式で「まったく新しい水俣病対策を提案する」と約束した。これまで行政は、対症療法的に起きたことだけに対処するという極めて消極的態度であった。私はこの姿勢を反省し、謝罪し責任を明らかにして積極的に取り組むべきであると式辞で表明することにした。 私のこの厳しい責任論は、水俣病解決の責任を持つ環境庁(当時)と県からは反対されたが、これを譲る気は毛頭なかった。折衝は難航し、一字一句までファクスのやりとりは数日におよび、市の担当職員は徹夜に徹夜、くたくたに疲れた。とうとう環境庁は式の前夜になって「地元の水俣市が言うのなら仕方ない」と折れ、行政の責任を初めて認める式辞は決定した。 私にとっては「決断の式辞」であった。 慰霊式の当日は大雨。会場の水俣湾埋め立て地に張った大きなテントは大雨で水浸し。患者団体、犠牲者家族、市民、国県からの来賓はテントからはみ出して、ずぶぬれの人も続出したが帰る人はいなかった。 式は無事に終了した。患者団体の長らが駆け寄って「式辞はよかった」の合唱となった。近くの女性が「市長さん、ありがとう。私の幼子が奇病などと言われて葬儀には誰も来なかった。犬猫と同じように葬った。かわいそうで私も死のうと思った。だが今日多くの市民と隣近所の人々に、非業な死を悼み冥福を祈っていただいた。息子が人間の子に返りました。うれしくてうれしくてなりません」。周囲からも同じ言葉をかけられた。