なぜ人は髪にコンプレックスを抱くのか? 『あしながおじさん』『ハゲの文化史』『め生える』を読んで
「ハゲ」と人に言うのは当然ダメだが、果たしてネタでならアリなのか? BPO(放送倫理・番組向上機構)に視聴者から批判的な意見が寄せられたとテレビ番組でも取り上げられ、最近ちょっとした話題となったハゲネタ。ハゲネタというと、漫才など演芸のものというイメージの強い人も多いだろう。だが、実は文芸作品にもハゲネタと言えそうなものは少なからず存在する。 〈追伸 手紙へのお返事を期待してはならないことは承知しておりますし、質問をしてはならないと警告もされておりますが、おじさま、今回だけ、今回いちどだけ、お答えいただきたいのです。おじさまは、すごく年寄りですか?それとも、少しだけ年寄りですか?それから、頭はつるっぱげでいらっしゃるのでしょうか?それとも、ややはげでいらっしゃるのでしょうか?〉(※「つるっぱげ」と「ややはげ」に傍点)。その1ヶ月後。〈お返事、くださいませんでしたね。重要な質問だったのに。おじさまははげですか?〉。 児童文学の名作ジーン・ウェブスター『あしながおじさん』に出てくる、この一幕(※光文社古典新訳文庫版(土屋京子 訳)より引用)。孤児院育ちの想像力豊かな少女、ジュディ・アボット。彼女は作家となるための大学進学を援助してくれた正体不明の「あしながおじさん」へ、月に1度手紙を送り日々の生活を報告する。そこで気になっていたことを、絶妙に失礼な形で尋ねてしまう。最初遠慮する様子を見せておきながら、その後一気に本題に踏み込む振り幅。さらに時間差で、もう一度ハゲかどうかを確認するに至るまでコメディとして完璧である。 そしてそもそも「あしながおじさん」は、つるっぱげでも、ややはげでもないこと。主人公の誰に対しても卑屈にならない快活さと、気になってしまったら書かずにはいられない人間的な未熟さを示していると解釈できること。『あしながおじさん』はもともと、主婦向けの雑誌に掲載された小説であったことなど。ハゲネタの是非はともかく、世の中に悪影響を与えないことを保証するこうした要素も合わさってはじめて、ハゲネタはネタとして成立していると言えるのではないかと思わされる。 それにしても、なぜ人は髪を気にするのか? 作家・博物学者の荒俣宏が毛髪についての歴史・風俗を紹介する『ハゲの文化史』 (ポプラ新書) によると、その起源は古代にまでさかのぼれる。生命をはぐくむエネルギーを地上に送る太陽。その光線を「太陽の髪の毛」であると古代人は考えた。ゆえに世界各地の神話に登場する太陽神は、長い髪をもつ姿が多く見られる。 日本では古事記の頃から長い髪が女性の美しさの象徴となっていたし、頭髪を伸ばし放題にして編み込むジャマイカのレゲエ・スタイル、ヒッピーの長髪など、髪は力やアイデンティティを示すのに欠かせない要素として、長らく存在してきた。薄くなったり無くなったりすると、気にもなるわけである。一方で本書は、フランスの貴族たちの間で流行したカツラの普及や増毛・育毛法の登場といった流れも押さえ、髪の悩みを軽減できる現状を明らかにしている。もしかしたら今後、技術の発達によってハゲネタは廃れていくのかもしれない。 とはいえハゲネタが廃れようと、人の意識が変わらない限り、外見にまつわる問題は解決しなさそうである。先月1月6日に刊行された高瀬隼子『め生える』(U-NEXT)は、罹ると髪の毛がすべて抜けてしまう感染症の蔓延する世界を舞台に、コンプレックスの生まれるメカニズムを浮き彫りとした小説だ。 みんな髪の毛が無くなるのなら、世の中平和になるのではないかとも思える。だがこの謎の感染症には、わずかながらイレギュラーな事象も存在していた。 会社員の真智加(まちか)は髪の毛が全部抜けたものの、また生えてきたことを周囲に隠している。公にするのをためらう大きな原因となっているのが、学生時代からの友人であるテラの存在だ。真智加はかつて、薄毛であるのをクラスメートたちの前でテラに悪気なくいじられ、そのことを恨み続けていた。だけども自己中心的で、何かとマウントを取ってくるテラに束縛されつつも続く友情関係を、大人になっても断ち切れない。髪がまた生えてからは、はげた彼女にそのことを知られて、関係が壊れるのを恐れるようにもなっていた。〈テラとはいつまで友だちでいられるだろうか。自分にではなくテラにほんものの髪が生えてきたのだったら、良かったのだろうか。人を殴るより殴られる方がいい。どっちも殴らないし殴られない関係が築けないのであれば〉。 高校生の琢磨はいまだ、髪が抜けていない。子供は感染しないらしいが、16歳ぐらいから結局は髪の抜けることが判明していた。男性器が無いからはげないのではないかと、大半がはげたクラスで、琢磨は同級生からあらぬ疑いをかけられている。〈はげたいは嘘だけど、みんなと違うのが嫌なのはほんとうだ。人と違って目立つと、なにをされるか分からないから、こわい〉。 髪が生えていてなぜいけないのか。多数派であるはげた人々が真智加や琢磨を除け者扱いするのに、「自分たちと違うから」以外の理由や確固たる主張を持っているわけでもない。彼らが頭を気にせず外に出るようになったきっかけは、ハリウッドの有名俳優夫婦がはげをオシャレと捉え、ウィッグを外した写真をSNSにアップし出したから。陰で怪しげな毛生え薬に飛びつき、悪徳業者にお金を巻きあげられる者も少なくない。学校の校則に人間関係にバラエティ番組の「お約束」など、劣等感の強まる要因となる、さまざまな状況下での同調圧力を描いている本書。真智加と琢磨の身に起きる、多数派の価値観に縛られない生き方を考えようとする意識のめ生えは、そこで大きな救いとなる。だが、彼らの内心に薄っすらとめ生えている、その他大勢に対する優越感や意地悪な言葉。それを漏らさず描く作者の公正さによって、他者を気にしない生き方の難しさについて考えさせられもする。 ハゲをいじるのではなく、いじる側のエゴや矛盾を暴いていく。そんな新しい構図を打ち出したこの作品は、ハゲネタとして間違いなくアリだ。
藤井勉