カリスマリーダーが組織に恩恵をもたらす時、ダメージを与える時
■カリスマ経営者は諸刃の剣にもなる ハーバード・ビジネス・スクール(HBS)の教授としてリーダーシップの授業を担当していた時、私はよく、1980年代~1990年代にジャック・ウェルチがゼネラル・エレクトリック(GE)を率いたケースを扱った。1990年代~2000年代初頭にかけては、10回ほど、ウェルチ自身がやってきてディスカッションに参加したこともある。 授業の前半では学生たちがケースディスカッションを進め、ウェルチは熱心に耳を傾けた。そのうえで、私がウェルチの意見を聞く。彼が立ち上がって話を始めると、私は学生たちの様子を観察していることが多かった。ほとんどの学生はウェルチに釘付けになっていた。何しろ彼は、言葉にならないほど強力なエネルギーを放っていた。学生たちとのやり取りは率直で、論争的で、しびれるほど強烈だった。翌日、学生たちに印象を聞くと、一番多かったのは「カリスマ的」という形容詞だった。 2020年に亡くなったウェルチの生涯は総じて称えられているが、複雑なレガシーも残した。米国を象徴する企業に新たな命を吹き込み、空前の成長をもたらしたと絶賛される一方、他人に過度に厳しく、あまりにもがむしゃらで、金融業やメディア、エンタテインメントなど、GEの本業とはかけ離れた分野に無分別に進出して、後継者たちが茨の道を歩むような状態にGEを追いやったとも批判される。 だが、人間のカリスマ性が高く評価されるようになった時代に、ウェルチがカリスマ的な経営者だったことは間違いない。 リーダーシップにおけるカリスマの役割を初めて論じたのは、1910年代のドイツの社会学者マックス・ウェーバーだった。ウェーバーは、カリスマを「人間の個性の一要素であり、それゆえ凡人とは別格の存在と見なされ、超自然的、超人間的、あるいは少なくとも並外れたパワーまたは資質を備えた人物として扱われる」と定義している。この見解によれば、カリスマ的指導者は社会変革の強力な牽引役となりうる。 だが、カリスマは諸刃の剣になる可能性がある。私の同僚であるHBS教授のラケシュ・クラーナは、2002年に『ハーバード・ビジネス・レビュー』(HBR)に寄稿した「カリスマCEOの呪縛」という記事で、この問題点の一部を指摘するとともに、取締役会がどのようにCEOを選ぶかに関する研究結果を紹介している。 クラーナによると、1980年まで平均的なCEOは、その会社で出世の階段を上がってきた無名のエグゼクティブであることが多かった。その知名度は、町の歯科医程度だったという。ところが1980年代に入ると、カリスマがあって、メディアに取り上げられることが大好きな、伝説的経営者がニュースメディアで紹介されるようになった。スポーツ欄におけるアスリートの扱いと同じようなスタイルだ。ウェルチのほかにも、クライスラーのリー・アイアコッカ、ウォルト・ディズニーのマイケル・アイズナー、スカンジナビア航空のヤン・カールソン、そしてソニーの盛田昭夫といった経営者がセレブリティと化した。 やがて取締役会も、テレビ映えして、人の心を動かす人物を経営者に据えるようになった(そして彼らを引き留めるために莫大な報酬を払うようになった)。その結果は、必ずしもこのタイプの経営者が約束したことと一致しなかったと、クラーナは語る。その理由の一つが、企業の成功にはCEOの個性を超えた多くの要因が絡んでいる点だ。 クラーナは、2004年の著書Searching for a Corporate Savior(邦題『カリスマ幻想──アメリカ型コーポレートガバナンスの限界』)で、さらに幅広い研究結果を報告している。多くの人と同じように、私もカリスマCEOの費用対効果に関するクラーナの結論に心から同意した。一部のリーダーが個人的な魅力によって従業員を活気づけ、ステークホルダーに影響を与えることに感心はするが、世間の注目を浴びることが大好きに見えるビジネスリーダーには、私も懐疑的な目を向けがちだ。研究や筆者自身の経験は、エゴを捨ててチームに集中する謙虚な経営者、つまりカリスマよりも能力のある経営者に率いられた組織のほうがうまくいくことを示唆している。 だが、現代の新しい世代のカリスマ的起業家や経営者を見るに従い、カリスマ的リーダーシップの価値に関する私の見解は、より条件を伴うものになってきた。 具体的に言うと、リーダーの個性が企業経営にメリットをもたらす環境が2つあることがわかってきた。