「国盗り綱引き合戦」舞台の兵越峠は「ヒョー越峠」だった 武田軍は通らず?由来には諸説
長野県飯田市南信濃と静岡県浜松市天竜区水窪(みさくぼ)町の県境にある「兵越峠」を巡り、表記が間違っているのではないか―との疑問が、飯田市曙町の林義章さん(79)から本紙「声のチカラ」(コエチカ)取材班に寄せられた。「ひょうこしとうげ」か「ひょうごしとうげ」と呼ばれ、「信州軍」と「遠州軍」が「国境(くにざかい)」を懸けて争う恒例の催し「峠の国盗(と)り綱引き合戦」が秋に開かれる場所だが、「ヒョー越峠」と片仮名で表記した観光パンフレットや地図もあるようだ。 【写真】「峠の国盗り綱引き合戦」 「信州軍」と「遠州軍」が県境を懸けて争う
■地理院地図やグーグルマップは漢字表記
国土地理院がインターネット上で公開する地理院地図で検索すると漢字表記で「兵越峠」と表示された。地図サービス「グーグルマップ」も同じだ。まずは現地へ。道の駅遠山郷から約20分間、道幅が狭かったり曲がりくねったりした山道を上がると「兵越峠」の看板が見えた。「ヒョー越」「ヒョウ越」の看板もひっそりと木にかかっていた。
近くの公園にある設置者不明の古い木製看板「兵越峠乃(の)由来」には、上洛(じょうらく)のために武田軍の本隊が近くの青崩(あおくずれ)峠を通り、分隊が兵越峠を越したと言われる―と書かれていた。15日、歴史好きで静岡県掛川市から訪れた窪野俊明さん(75)は「今より細い道を大軍が通ったと思うと、大変なこと」と話した。
ただ、武田軍が青崩峠を通らなかったとの説が近年浮上している。水窪町の郷土史愛好家加藤貞義さん(81)によると、武田軍は徳川家康と争った三方ケ原の戦いで青崩峠を通ったという説が定着していたが、研究者の間で30年ほど前から、富士川筋を南下して駿河から西に進んだとの説が出ており、今や主流だとする。水窪町ではかつて町おこしを兼ねて「兵越峠」と表記していたが、天竜区観光協会水窪支部では10年ほど前から「ヒョー越峠」に直すようになった。
県内ではどうか―。遠山郷(飯田市上村・南信濃)などの民俗を半世紀近く調べている橋都(はしづめ)正さん(82)=下伊那郡高森町=によると、「ヒョー越」と呼ばれていた。下伊那郡教育会(現下伊那教育会)が1958(昭和33)年に発行した郡図にも「ヒョー越」と記されている。