「周囲の非平和を希望に変えよう」広島原点に核廃絶に取り組む平和学研究者のロニー・アレキサンダーさん 来日から46年でたどり着いた「平和への過程」【思いをつなぐ戦後78年】
米国で生まれた神戸大名誉教授のロニー・アレキサンダーさん(67)は、大学卒業後に来日し、5年間を広島で暮らした。ライフワークは「平和研究、平和運動、平和教育」。原点は、被爆者と日常的に交流し原爆について学んだ広島での経験だ。 「研究室で平和はつくれない」と東日本大震災の被災地や、海外の紛争地域も巡る。来日から46年間の歩みを振り返り、たどり着いた「平和を手にするまでの過程」について話を聞いた。(共同通信=小作真世) ▽派遣先が広島に決まり涙 カリフォルニアで生まれ、大学卒業後の1977年に日本に渡りました。「広島YMCA」で働くことになったものの、日本語は全然分からず、何より広島は米国が原爆を投下した街。派遣が決まったときは、「そんなところで友達はできない」と泣きました。 いざ赴任してみると、心配は杞憂でした。すぐに友達もでき、必死に勉強して日本語も身に付きました。通訳や外国人を案内する仕事は楽しく、2年の任期はあっという間に過ぎ、気付けば5年がたっていました。
広島に来た頃は、原爆のことをほとんど知りませんでした。教科書にきのこ雲は載っていましたが、その下で起きたことへの言及は全くなく、「戦争を終わらせた」とだけ。どうして日本人より米国人の命の方が大事なのか、疑問を持っていました。原爆資料館を何度も訪れ、被爆者の話を聞き、核兵器について学びました。 ▽米国の核実験を知りショック 当時の広島は戦争の記憶が強く、周囲には被爆者の知人もたくさんいました。街で知らない人から原爆への怒りをぶつけられたことも覚えています。親しくなった被爆者の沼田鈴子さんは「ずっと米国が嫌いだったけど、恨みや憎しみは自分をむしばむ。その感情を捨てないと前に進めない」と話してくれました。 米国がミクロネシアで行った核実験について知ったのもその頃です。勝手に人の土地を奪って被ばくさせ、許されないことばかり。大学まで出て、これっぽっちも教わらなかったこともショックでした。非核化の研究をするため東京の大学院に進み、神戸大に就職しました。