「映画はそのうち駄目になる」街頭テレビが生んだ「戦後復興のヒーロー」力道山が、今際の際に“3本の指”を示した理由
朝日新聞の編集委員・小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。今週は生誕100年となる力道山(1924~1963)を取り上げます。力士から転向して日本に初めてプロレスを紹介。空手チョップで外国人レスラーを倒す姿に、多くの日本人が熱狂しました。39歳という短い生涯をまさに駆け抜けた、その裏には何があったのか――。 【写真】後に、グレート・アントニオと死闘を繰り広げる力道山と付き人時代の猪木が写っている歴史的な1枚
「最後の弟子」が語る力道山
末期がんとなり、今年に入って主治医から余命を宣告されて以来、「死」に関する哲学書やエッセーがやたらに身近に感じられるようになった。キルケゴールやニーチェを原書で読みふけっていた学生時代は頭での理解だったが、いまは自分の精神や衰えゆく肉体を通じて死を体感している。 人生を飄々と駆け抜けた作家・山田風太郎(1922~2001)は、かくのごとき言葉を残している。 《死は推理小説のラストのごとく、本人にとって最も意外なかたちでやって来る。しかも、人生の大事は大半必然に来るのに、最大時たる死は大半偶然に来る》(『風太郎の死ぬ話』角川春樹事務所) 暗澹たる世界に落ち込んでいくときも、人間には意識はあるのだろうか。突然訪れた死に対し、どんな意識が働くのだろうか。 私が物心ついたときにはこの世の人ではなかったが、非業の死ということを思い起こすと、昭和のプロレスラー、力道山が浮かぶ。 1963(昭和38)年12月8日、東京都港区赤坂のナイトクラブで客と口論になり、ナイフで腹を刺された。その傷がもとで、1週間後の12月15日、39歳の生涯を閉じた。この年、日本は混乱と貧困を抜け、高度経済成長を遂げる。翌64年の東京オリンピックで見事に先進国として復調した日本の姿を見ることなく、力道山は黄泉の国へと旅立った。 その力道山の墓地は池上本門寺(東京・大田区)にある。五反田と蒲田を結ぶ東急池上線の池上駅が最寄り駅だ。私事になるが、わたしも同線沿線の住民。よく寺を訪ねては、昭和のヒーローに手を合わせた。帰りに地元の名物、くず餅を食べたが、門前町はいつ訪れても気持ちが晴れやかになる。 墓碑には「大光院力道日源居士」と戒名が刻まれている。丸太のような腕を組んだ胸像にはチャンピオンベルトが巻かれ、「触ると元気がもらえる」、そう信じて訪れるファンの姿は今日も絶えない。 得意の空手チョップで外国人レスラーを打ちのめした力道山。彼の弟子で大日本プロレスの創業者、グレート小鹿(82)にインタビューしたのは2010年冬だった。「先生、見守ってください」。小鹿も時々、池上本門寺を訪れるという。進退をかけてリングに上がったときも恩師の墓前で勝利を誓った。 小鹿は力道山から教えを受けた「最後の弟子」。北海道函館市出身で、1962年、風呂敷包みひとつで渋谷にあった力道山のジム「リキ・スポーツパレス」を訪ねた。 「君、相撲やっていたんだって。手足が長くていいぞ。頑張れよ」 と力道山から声を掛けられ、意外なほどあっさりと入門が許された。「雲の上の人」の言葉に身震いした。 63年12月7日、力道山は静岡の浜松市体育館で6人タッグマッチに臨んだ。試合を終えて夜行列車で東京に帰る師匠を、小鹿はほかの付き人と一緒に見送った。翌8日、赤坂の合宿所に帰った小鹿は「オヤジが刺された」とレスラー仲間から知らされる。 治療室で師匠は「ちくしょう、ちくしょう」と荒れ狂い、医療機器を投げては壊していたという。1週間後の15日に病状は急変。腹膜炎を併発し、死去する。39歳という短い生涯。戦後の日本に咲いた大輪の花は、あっけなく枯れ落ちた。