【メディアはなぜ、「ジャニーズ問題」に“沈黙”したのか】説明責任を果たそうとするNHKスペシャル「ジャニー喜多川 “アイドル帝国”の実像」
ジャニー喜多川が性加害者となってしまった歴史
この結論に至るまでに、取材班はジャニー喜多川氏がなぜ加害に及んだのか、彼を防ぐことをなぜできなかったのか。ジャニー喜多川氏と姉のメリー氏の人生についても深い取材を進めた。また、この性加害事件とジャニーズ事務所が、メディアのタブーになったのか、その過去のついてもメディア関係者から詳細な証言を得ている。 そこにあるのは、NHK自らが陥ったジャニーズ事務所問題とともに、メディアがタブーとしていく仕組みにも迫っている。この番組が高く評価されるべき理由である。 ジャニー喜多川氏とはいったい何者なのか。 ロサンゼルスにおいて、日本人の父母のもとに1931年に生まれた。姉のメリー氏は4歳上である。父親は僧侶であった。ジャニーが2歳のときに、両親は日本に帰国する。太平洋戦争の勃発によって、ジャニーの家族は和歌山で疎開生活を送ることになった。 ジャニー喜多川の肉声が残されている。「和歌山、新宮、勝浦あたりに僕のおじいさんがいたんですよ。戦争中そこで生活してたんです。夜に空襲警報があって、地域がばばばーんと焼夷弾にやられちゃった。僕は焼夷弾から逃げるのに必死だったんですけど、子どもだから何が何だかさっぱりとわからないんですよ」 性加害者の被害者である元ジャニーズ事務所所属のタレントは、「ジャニーさんが疎開していたころ、おじさんに愛された」って言っていたと証言する。この人は14歳のときから200回以上にも及ぶ加害を受けた。当時の自分の写真をみながら「目が死んでいる。ただ、笑っている。苦しいときでも笑う癖がついていたんです」と。 戦後、ジャニー姉弟はふたたびロサンゼルスに渡る。当時の友人は「親がアメリカの教育を受けさせて良い人生を送らせようと考えたのだろう。ジャニーとメリーの性格は正反対。彼は物静かで、彼女は積極的で気が強い。ヤスコ(メリー)は弟を守り面倒をみていた。ここで生活できるように彼女が道を切りひらいた」と。 「メリーは姉でありながら、母親的な存在であったのでしょう。母を若いころに失ってその役割を担ったのだと思う」と。 元ジャニーズ事務所の従業員の証言ともふたりの関係は一致する。「外からみると、ジャニーさん、内側ではメリーさんの采配ですべてが決められていく。圧倒的な独裁者といった感じでした。 ロサンゼルスでの姉弟の生活は厳しかった。メリーの雑誌のインタビューがある。 「決して楽な生活ではありませんでした。ベビーシッターもやったし、ショップ・ガールもやりました。どうしても日系アメリカ人社会に同化できなかったことや、日本へのホームシックも大きくて帰ることにしたのです」 ジャニー喜多川は朝鮮戦争によって、1952年に米軍に徴兵されて日本の代々木にあるワシントンハイツに駐留した。ハイツにやってくる少年たちを集めて野球チームを作る。これがその後に少年たちによる芸能ビジネスの原点になる。 そして、ジャニーの進路を決めたのが映画「ウエストサイドストリー」だった。「銀座でそれを見に行ったとき、かっこいい、『俺もこういうのをやりたい』と思った」という肉声が残っている。 ジャニーが編成した少年グループを伴って、あるタレント事務所に寄宿する。メリーがその事務所の経営者の妻と親しかったからだ。 この事務所の同僚が証言する。経営者から次のようなメリーからの話を聞いたというのである。 「ジャニーは、小さい頃にやられたことをいまやっている。うちの弟は病気なんだよ」と。