歌舞伎町から少年・少女が排除されていく…歌舞伎町タワーで見えた「街から消えた寛容さ」
歌舞伎町タワーで感じた「排他性の高さ」
良いか悪いかは別にして、東急歌舞伎町タワーで強く感じたのは「排他性の高さ」である(ちなみに、英語で「高級な」を表す「exclusive」は同時に「排他的な」を意味する言葉でもある)。端的に言えば、「入りたければ金を使え」という念を感じる。 施設全体として「インバウンド観光客」を念頭に置いているのも同様だろう。インバウンドの購買力がすさまじいことを、私たちは重々知っている。まさに「金を使う」代表例だ。 いや、これ自体は否定しない。東急は一企業で、これだけの高層ビルを金銭的に賄うためには、お金を落としてくれる人々を歓待するのは方向性として間違っていない。 ただ、東急としてはむしろ客層の「狙いを定めていない」らしい。 ITメディアオンラインの記事にて、東急歌舞伎町タワーを運営するTSTエンタテイメントの木村知郎社長は「あえて属性などでターゲットを設定していない」と言い切り、「歌舞伎町はそもそもさまざまな方がいらっしゃる街です。そのため属性で区切るのは難しい。そこで『好きを極める』というコンセプトが生まれた」と言う。 そうして登場するのが、近年の再開発でよく登場する例の言葉「多様性」である。ホームページを見ると至る所に「多様性」という言葉が転がっている(東急歌舞伎町タワーで多様性といえば……)。 しかし、訪れれば一目瞭然でわかるように、そこに本当の意味でさまざまな人がいるかというと、疑問符が生じる。いかんせん、そこは「exclusive」だ。 少なくとも、ビルの前のトー横広場にたむろしていた「トー横キッズ」たちは、その「多様性」には含まれていないようである。
歌舞伎町の「寛容さ」が失われている?
私は、東急歌舞伎町タワーを否定的に捉えたいのではない。 むしろ企業の選択としては当然の成り行きで、「金がないと楽しめない」のは当然のこと。きっとヤフコメでも「金を払って中に入るのは当然。治安を見出すトー横キッズなんて、企業からしたら邪魔でしかない」といったコメントが何十件も付くことは目に見えている。 しかし、ここで考えて欲しいのは(そうしたヤフコメが当然付いてしまうことも含めて)歌舞伎町の街全体としての「寛容さ」が失われてしまっているのではないか、というぼんやりとした疑念だ。 東急歌舞伎町タワーは、トー横広場のすぐ横にあるが、この広場は2023年に封鎖された。行政は「フォトスポット設置」と言うが、「実質的な締め出しなのでは?」という声も多い。私がそこを訪れた2024年9月の段階でも、トー横のほとんどは封鎖されていて、歌舞伎町のど真ん中に、不思議な空白地帯だけが空いている状態だった。 さまざまな事情から歌舞伎町に来ざるを得なかったトー横キッズは、たまたま空白になっていたこの場所にたむろすることで、一時的には「居場所」を見つけていたはずだ。しかし、結局、行政の対応が十分なわけでもないまま、街全体が「清潔に」されていき、どんどん浄化されていく。 もちろん、これは東急歌舞伎町タワーだけに限らない話だが、なんとなく、街全体として、ある種の異質なものを包含する包容力を欠いているといえるのではないか。もっといえば、そこはすべての人にとっての「居場所」がある街なのか。