《追悼秘話》「ロビーでの夫婦会議が名物」中尾彬さんの“ねじねじ”ではない真っすぐな生き方
芸能人ぶらず、いつも自然に振る舞っていた。 「半年くらい前かな。数人でエレベーターに乗るとき、中尾さんが乗り遅れちゃったんです。それで、慌てて乗り込んできたと思ったら“ゴン!”って大きな音がして。中尾さんのお腹がエレベーターのドアに挟まったんです。みんな大爆笑で、本人も“おっきなお腹が挟まっちゃったよー”って(笑)」 3月ごろからは外出の回数が減っていた。それでも5月の連休明けに中尾さんを見かけたマンションの住人がいた。 「2週間ほど前、ロビーでいつもの声が聞こえてきて、変わらず元気そうに見えました。若い女性と座って話していましたよ。女性は資料を広げて何かの説明をしていたから、保険の外交員かな?と思いました。ご自分の終活をしていたのかもしれませんね」
行きつけの寿司店の暖簾をデザイン
浅草にある創業158年の老舗『弁天山美家古寿司』には、夫婦で訪れていた。 「馬生さんとは家族のようなお付き合い。志乃さんは小学生のころから通ってくれていました。中尾さんは志乃さんと結婚してから46年間、馬生さんが亡くなってからは毎月通ってくれました。港町の出身だけに魚には詳しかったですね。いつもコハダ、アナゴ、マグロのヅケを食べていました。店内の暖簾は1年で12種、毎月、中尾さんがデザインをしてくれました。私の父と妻の共著の表紙もデザインしてくれて、私の名刺も中尾さんが毛筆で書いてくれました」(親方の内田正さん、以下同) 最後の来店は、今年1月だったという。 「そのときは、いつものようにお酒も飲んでいました。2月20日にも夫婦で予約が入っていたのですが、中尾さんから調子が悪いからってキャンセルの連絡がありました。過去に一度、倒れていたから、心配していました。 それっきりとなってしまいましたから、予兆はあったのかもしれませんね。もう来ていただけないのかと思うと寂しいです」 2006年から2007年にかけて、夫婦が共に体調を崩して入院し、終活を始めるきっかけに。悔いを残さないためにも、気遣いを大切にしていた。 荒川区の日暮里駅に近い佃煮の老舗『中野屋』の店主は、こう振り返る。 「うちは創業101年。志乃さんのご実家から近くて、志ん生さんや馬生さんからの付き合い。中尾さんは、よく“鰻の佃煮”をご自分用に買って、ギフト用にも使っていただきました。とんねるずの“食わず嫌い王”でも中尾さんに紹介していただいたら、注文が半年先までいっぱいになりました」