原爆に奪われた14歳の命 95歳姉が遺品寄贈「夢半ばだった少女たち忘れないで」
広島県安芸高田市に暮らす被爆者石井ミホカさん(95)は、助産師を夢見て広島市内で勉強していた妹内田サヨ子さん=当時(14)=を原爆に奪われた。サヨ子さんが家族に宛てた手紙などの遺品は長く大切に保管してきたが、この夏、原爆資料館(広島市中区)へ寄贈を決めた。「原爆によって夢半ばで命を絶たれた少女たちがいたことを忘れないでほしい」と強く願う。 【画像】サヨ子さんが家族に宛てた手紙 拙い字で家族に宛てた手紙、筆でしたためた助産学校への入学願の下書き、愛用の刺しゅう道具や多彩なステッチを施した作品…。石井さんはいとおしい妹の形見を一つ一つ懐かしそうに手に取る。「とても素直な性格。何事にもいちずで一生懸命な子だったんよ」 石井さんは当時、家族で能美島(現同県江田島市)に暮らしていた。石井さんは7人きょうだいの三女、2歳下のサヨ子さんはすぐ下の妹で仲が良かった。サヨ子さんは地元の国民学校高等科を卒業後、広島市昭和町(現中区)の叔母宅に下宿して大手町(同)の眼科で働きながら、助産学校に通っていたようだ。 旧満州(中国東北部)での仕事に憧れを抱き、実家では「助産婦になって満州に行く」とよく語っていたという。1945年6月20日付の家族に宛てた手紙は、勤め先から通学している近況を報告し、助産学の本が欲しいとせがんでいる。 だがそんな夢は一瞬にして打ち砕かれる。サヨ子さんはあの日、出勤途中に爆心地から約1キロの路上で被爆。全身に大やけどを負った。 同じ頃、能美島にいた石井さんは広島方面から聞こえた爆発音に妹の身を案じていた。やがてサヨ子さんが広島陸軍共済病院(現南区)に収容されているらしいと知人から聞き、翌7日、まだ火の残る広島市内へ。自身も入市被爆した。 病院で対面したサヨ子さんは「髪の毛はじりじりに焼け、顔や腕は腫れ上がり皮膚はずるむけ」と石井さん。一見して分からず「ほんまにサヨ子か」と確かめたという。 何とか船に乗せ、能美島の自宅に連れ帰ったものの、できる手当てはキュウリやジャガイモをすりおろして布に張り、やけどの皮膚を覆うくらい。「痛いだろうにひと言も弱音を吐かなかった」。だが懸命の看病もかいなく、サヨ子さんは19日に息絶えた。 「前途ある若者や子どもにこんな悲しい出来事があってはいけん」と石井さん。ウクライナやパレスチナ自治区ガザなど今も続く戦争のニュースに触れるたび、被爆の惨状を思い出し悲しみがこみ上げる。「妹の形見を未来に役立てて」と強く願う。
中国新聞社