「飛び降りようか、と」元宝塚スターの悪性リンパ腫とうつ闘病、悪夢を救った“生きる力”
そうしたやりとりをきっかけに付き合うことになり、恋愛もバネに生きる力が呼び起こされたという。 「入院中に力をつけなきゃと気合でかつ丼を平らげ、お医者様に驚かれたことを思い出しました(笑)。それに、家にいるときも鹿児島在住の姉に遠隔でピザを頼んでもらって。床を這わないと玄関まで行けないほどの体調なのに、無理やりにでも食べる。それも戻してしまうのですが“生きることは食べること”と思うことで頑張れました。自分ひとりではできないこともあるんだなと気づきましたし、人からもらう言葉によって、私は生きる力が湧いてきたんです」
「病気もあなたの個性なんじゃない」
努力のかいあって、5か月後に『シンデレラtheミュージカル』で舞台復帰を果たす。 「うつには波があるし、痛みもあるまま復帰できるのだろうかと諦めかけていたところ、主治医が“僕もうチケット取りましたよ!”と。その言葉で一気に気持ちが切り替わりました。血管痛がひどいときは一日中湯船で身体を温めながら台本を読み、寝転がりながら映像で振り付けを覚えて、たった4回のお稽古で舞台に立ったんです」 舞台上ではがん患者とは思えぬパワーでシンデレラの継母役を熱演。だが実際には、公演期間中も放射線治療が続いた。 「朝6時に起きて、9時から始まる治療の1番目をどうにかゲット。放射線治療後は倦怠感もひどいので移動中に横になり、車内でメイクをして、綱渡りで11時公演に臨んでいました。裏方さんは“そこまでできるなんて本当に舞台が好きなんだね”と泣いていて……。確かに舞台がなかったら過酷な治療を乗り切れなかった。副作用で喘息がひどいのに、舞台に立った瞬間、ふしぎなことにピタッと咳が止まるんですよ」 そんなひたむきな姿は、いつしか同じがん患者も勇気づけていた。 「放射線治療中は、照射部位にマーカーやシールで印をつけるのですが、“舞台に出るんだからバラや十字架に印をかえてもいい?”なんて冗談を言ったら先生たちは爆笑で。笑い声は待機中の患者さんまで届いて、“がん患者とは思えない。治療は彼女の後がいい!”という方が殺到したんだとか(笑)。そんなふうになれたのも、私にとって舞台が薬だったから。共演者に会えたり、お客様からいただく思いが“私は必要とされているんだ”というパワーになり、ありがたかったですね」 千秋楽を迎えた後、肺に放射線治療の後遺症が残り、再入院。その後は一度も再発せず今に至っている。 「定期的に検査を受けていますが、おかげさまで再発はありません。病気をする前はがむしゃらに仕事を詰め込むことで自分を保っていたのですが、今は何もない時間に見つけられることもあると視野が広がりました。趣味のガーデニングをしたり、愛犬と散歩しながら自然に触れたりと、与えられた時間を大切に使っています。まわりのみんなとも“まだまだ若くいたいよね”と言いながら、血圧に気をつけたり麹や梅ジュースに凝ったりして、口にするものはしっかり選んでいます」 自然に触れる穏やかな時間で、深呼吸の大切さにも気づいたという。 「昔はため息も悪いことだと思っていたのですが、深呼吸のようにしっかり吐き出すことで次の息を吸えるんです。気持ちも一緒で、なかなか自分の思いを言えないことが多いけれど“もう聞いてよ~!”ってまわりの人に吐き出したら、あとはみんなで思いっきり良い空気を吸い込めるから」 病気の捉え方も、どこまでも前向きだ。病気になって弱気になれたからこそ結婚もできたという。 「闘病がなければ今もひとりだったと思います。弱さを見せた私に手を差し伸べてくれた夫のことは命の恩人だと思います。“病気もあなたの個性なんじゃない”と彼が言ってくれたから」 がんになったことも“悪いことばかりじゃない”と捉えるようになった。 「今、病気で絶望している方がいらっしゃったら、あなたなら乗り越えられるからこそ病気が与えられたと思うし、闘うエネルギーに変えていってほしい。そして誰かが手を差し伸べてくれたら甘えていいんだよと伝えたいです」 取材・文/植田沙羅 あいか・みれ 1964年生まれ。1985年に宝塚歌劇団に入団、花組に配属。1999年に花組トップスターに就任。代表作に『源氏物語 あさきゆめみし』や『タンゴ・アルゼンチーノ』など。華やかで美しい正統派男役として活躍し、2001年に退団。以降、舞台やテレビなどに幅広く出演。