【卓球】荻村伊智朗がTリーグと月刊誌卓球王国を作った。死してなお卓球界に影響を与えた偉人
「荻村さんを超えたい」と松下は現役時代から考え、荻村がなし得なかった「プロリーグ設立」を目指した
彼は少しアルコールが入ると、「あの人には負けたくない」とうなされたように私に言う。彼とは松下浩二で、あの人とは荻村伊智朗だ。1994年12月4日に逝去。没後30年が経とうとしている。 私からすれば、世界チャンピオンであり、その後、スポーツ外交官として1971年の「ピンポン外交」を裏で演出し、1987年には国際卓球連盟の会長まで上り詰めた荻村伊智朗は雲の上のような存在でもある。 しかし、松下にとっては尊敬しつつも、今でも「倒したい」「自分を認めてもらいたい」という存在らしい。 将来を嘱望され、愛知県の桜丘高から明治大に入った松下浩二。合宿所は当時東京の三鷹にあった平沼園の練習場の横だった。高校時代から代表合宿に呼ばれたり、海外遠征に選ばれていた松下。合宿所から自転車で数分のところに荻村伊智朗の自宅があり、国際卓球会館という卓球場が隣接していた。 1987年世界選手権ニューデリー大会の日本代表に選ばれている松下浩二。その頃から夜中の12時、1時に合宿所の公衆電話が鳴る。電話番が松下につなぐ。「これから卓球場に来なさい」と荻村の一言。 松下は五輪に4度出場、世界選手権ではダブルスと団体でメダリストになっている。もちろん素晴らしい成績だが、世界チャンピオンの荻村には及ばない。現役を引退しても、国際卓球連盟の会長まで上り詰めた荻村を追い越しようがないが、2010年にヤマト卓球(現:VICTAS)の社長に就く前から、心の中にやりたいことがひとつあった。 「日本にプロリーグを作る」ことだった。参加チームの事情でのちに「プロリーグ」とはうたえなくなったが、「世界最高峰リーグ」の実現へ歩き出していた。それは荻村でさえもなし得なかったことだった。「荻村さんを超えたい」という思いが、Tリーグに松下を駆り立てた。 「荻村さんを超えたい一心」で立ち上げたTリーグ。松下がいなかったらこのリーグはなかったし、荻村への対抗心がなければ、松下もそこに向かわなかったかもしれない。 実は「荻村伊智朗」という人がいなければ、「月刊誌 卓球王国」は存在しなかった。私は中学・高校時代は指導者のいない中で「卓球一色」。愛読書は「卓球レポート」。荻村が刊行したすべての卓球書も読み込んだ。当時は今のようなインターネットの情報はないのだから、紙からの情報がすべてだった。 美術部でもなく卓球部だったのに、まずは美大を目指すのはクレイジーな話だが、一浪して美大に入った。大学入学後、東京の三鷹に本拠地があり、荻村が主宰していた「青卓会」という卓球クラブに入り、卓球に打ち込んだ。荻村の独特の卓球理論に包まれ、常に海外の選手などとの交流がある環境だった。この海外の選手との交流は後に役に立った。 その後、荻村の会社(荻村商事)に入り、「卓球ジャーナル」(発行荻村商事)や卓球メーカー専門誌と関わることになった。「卓球が好き→美術大学でデザインを専攻→写真も撮れ、レイアウトもできる→卓球雑誌の編集」というつながりで、この世界に足を踏み入れた。 「卓球をメジャーにするために、卓球ジャーナリストの道を歩め」とは亡くなる4年前に荻村から言われた。もちろん、荻村との出会いがなければ、卓球専門誌の仕事もしていなかっただろうし、1997年の卓球王国創刊もなかった。 松下浩二と私は、見えない糸で荻村伊智朗とつながり、導かれた道がある。人との出会いはそんなふうに始まり、つながっていく。 (文中敬称略) <卓球王国PLUS「今野の眼」より抜粋> <今野昇・卓球王国発行人>