予期せぬトレード通告「えっ、俺なの」 待ち望んだ監督交代も…2か月で“関係終焉”
まさかのトレード通告に「えっ、俺なの。俺なのって思いがありました」
牛島氏は19歳だったプロ1年目(1980年)の8月に1軍昇格。「あの当時は一番のペーペーがベンチ入りしていても、自分の出番が来るまでは先発投手のうがいの水とか、おしぼりとか、バスタオルとかの担当なんです。星野さんの時もグラブを持ったり、スパイクを持ったりね。試合中に星野さんが裏に行ってアンダーシャツを着替える時には、それも事前にちゃんと出して準備していましたね」。そんなこともあって、自然と星野氏に付くようになっていったそうだ。 「1年目のオフにピッチャーのコンペがあって、1年目はゴルフをさせてもらえないんですけど星野さんに朝5時半に家に来いって言われて行きました。コーヒーとトーストをいただいて荷物をトランクに入れて、ゴルフ場に着いたら星野さんのベンツを駐車場に停めたり、コースでは『5番アイアンを持ってこい』とか言われたら『ハイ』ってね。夜は星野さんの家で表彰式、庭でバーベキューして僕は肉を焼いたり、お酒をつくってみんなに配ったりしていましたね」 星野氏との思い出は尽きない。「僕が2年目だったかな、星野さんがホームランを打たれた時、横に座って『何で打たれたんですか』って聞いたら『このケースで、このバッターに、このカウントでスライダーが甘くなったら打たれる』とか言って教えてくれたんですよ」。打たれてカッカしている“燃える男”からは近寄りがたい空気が充満していたのは言うまでもない。その危険区域に牛島氏は“直球質問”で飛び込んでいったわけだ。 「単純に何がアカンかったのだろうって聞きたかったので、怒られてもいいやって感じでね」。星野氏は牛島氏のそんな部分もむしろ気に入ったのだろう。「星野さんが使っていたグラブのモデルも僕が引き継きました。同じ形のモデルなんですけど、それまで星野モデルだったのが、引退されたので牛島モデルに変わったんです。引退された時、球場を一周、車でするじゃないですか、僕、後ろに乗っていました。タオルを渡したり、花束をもらったりね」。 1986年オフ、そんな星野氏が現役引退から4年の充電期間を経て満を持して中日に監督として帰ってきた。牛島氏にしてみれば、もっとも慕っていた先輩を今度は優勝監督にしたいと張り切って当然だろう。それだけに“まさか”だった。星野氏と牛島氏の監督と選手としての関係が1986年10月下旬から12月下旬までの、わずか2か月で終わるなんて予想できるわけがなかった。 ロッテ・落合博満内野手と中日・牛島投手、上川誠二内野手、平沼定晴投手、桑田茂投手の1対4の世紀のトレード。「えっ、俺なの。俺なのって思いがありました」。1979年ドラフト1位で浪商(大阪)から中日入りし、それこそ1年目から身を粉にしてチームのために投げて、結果も出してきた牛島氏にとって、1986年12月23日の通告は衝撃的すぎた。
山口真司 / Shinji Yamaguchi