【対馬丸事件から80年】罪悪感抱え生きた“語り部” 学童疎開船が撃沈 子ども1000人超が犠牲…力尽きた人は波に消え
■軍刀を抜き「絶対にこれはよそに言うな!」
一方、日本軍は、沈没が知られ戦意が下がることを恐れて、厳しい箝口令を敷きました。 大島安徳さん 「軍刀を抜いてね、“気をつけ”の姿勢をして『絶対にこれはよそに言うな!』と。それはつらかったな」 そして、島の人が止める中、助かったばかりの衰弱している生存者でさえ、連れて行ったといいます。
■台風で流された遺体 遺骨の代わりに…
あの海岸には、慰霊碑が建てられました。そこには、犠牲者を弔う大島さんの歌も刻まれています。 いまも残る後悔の気持ち。埋めた遺体は台風で流され、遺族は「せめても…」と遺骨の代わりに海岸の砂を持ち帰ったといいます。 大島安徳さん 「私はそれを見ながら、涙が流れてね、なりませんでした」 「(遺体は)みんな胸にネームをぬいつけてあったんです。せめて、そういうのでもメモしておけばよかったのになと。後悔先に立たずです」 島で唯一の語り部となった大島さん。平和への思いを強く胸に抱いています。
【取材した日本テレビ元社会部・久野村有加記者 対馬丸事件80年に思うこと】
平良啓子さんは2023年夏、急逝されました。平良さんは亡くなる前日も次の講演会に向けた打ち合わせをされていたそうです。 平良さんの記憶は鮮明で、講演会での言葉は力強く、対馬丸事件のことを次の世代に繋げていきたいという気持ちがいつも強く伝わってきました。沈没から漂流という想像を絶する過酷な体験をして生存した平良さんですが、一緒に乗船していた兄やいとこを対馬丸事件で亡くしています。対馬丸記念館の、子どもたちの遺影が並ぶ部屋で講演した後は「みんなが私を見ているようだった。『ちゃんと伝えてくれてるの?』と訴えられているようだった」とお話しされ、自分だけが生き残った罪悪感を抱き生きて来られたのだと感じました。