地震と津波に襲われた故郷「知らん町になったみたい」奥能登出身の記者が見た能登半島地震
被災地では地震が起き、町全体が壊滅的な状況に陥っても、それでも、能登が好きで、この場所に居たいという思いを持つ人がいます。 大きな被害を受けた被災地の一つ、石川県能登町出身の平歩生記者のリポートです。 動画で見る“奥能登出身の記者が見た能登半島地震” ■【地震発生当日】故郷に戻る道中 襲い掛かった揺れ 震度7の揺れを観測した1月1日午後4時10分。 私は能登町の実家に向かい、夫と車でのと里山海道を走っていました。 携帯の緊急地震速報が鳴り、急いで車を止めたのは震度7を観測した志賀町を通る徳田大津ICの近くでした。 その後、家族の安否が心配で何とか能登町に向かおうとしましたが、道路が陥没しすでに通れなくなっていました。 幸いにも当時実家にいた両親や兄弟など9人に全員けがはありませんでした。 私が記者として被災地へ取材に入ったのは震度7の地震の翌日。 母校・飯田高校のある珠洲市です。 ■【地震から翌日】母校のある珠洲市 変わり果てたふるさとに 午後6時、高校時代に部活の後、友人とよく訪れていた道の駅すずなり。 普段であればついていたバス停の灯りや、コンビニの明かりが1つもついておらず、辺り一面真っ暗となっていました。 毎日見ていた景色は全く違うものに。現状を伝えるため、取材を続けました。 9日に再び訪れた珠洲市。変わり果てたふるさとの姿に言葉を失いました。 まるで知らない町になったようでした。 母校は今どうなっているのか。9日、高校時代にお世話になった先生を頼りに飯田高校を訪れました。 飯田高校・嶽桂輔教頭 「5月に地震があった時に一応ピンどめしとったから、(靴箱は)今回は倒れなくて済んだ。5月の時は全部倒れた」 平記者 「嶽先生、気持ちは大丈夫?」 嶽教頭 「大丈夫大丈夫」 平記者 「学校のすぐ近くの家って言っとったし。ずっと学校?」 嶽教頭 「1日の4時10分に(地震)があって、4時20分くらいからはずっと学校で詰めとる。きのうだけ夜、家で寝られた」 飯田高校は発災当日から住民の避難所になっていました。外観こそ形は残っているものの、校舎は至る所に亀裂が入っていました。