「血尿が出るまでやらないと、体は変わりません」 ミュンヘン五輪平泳ぎで金メダル「田口信教」の“科学的な根性論”(小林信也)
田口信教(のぶたか)は広島・尾道高2年の時、1968年メキシコ五輪代表選考会(水泳男子100メートル平泳ぎ)で4位に入った。通常なら1位と2位が代表になるところ、「将来性のある若い選手を連れて行こう」との方針で田口が選ばれた。
17歳の田口は期待に応え、メキシコ五輪準決勝で1分7秒1の世界新記録を出した。ところが、場内に非情なアナウンスが流れた。 「ノブタカ・タグチは泳法違反により失格」 研究熱心な田口は、より速く脚を動かせないかと考え、キック後、空中に上げて引き戻す方法を採った。水上のリカバリーの方が水の抵抗がなく速く動かせるから、両手も速いピッチでかける。だがバタフライのドルフィンキックと見なされ失格処分を受けた。その時の心境を、田口が振り返る。 「それほどショックはありません。メキシコに行けただけで満足でしたから。でも帰国して金メダリストとそうでない選手の扱いの差を見て悔しさが湧いた。オレだって取れたのにって。それで次は金メダルを取る、高校を出たらアメリカに留学しようと決めました」 広島の水泳関係者たちは青くなった。地元の星をアメリカに取られてたまるか! 社長が広島出身のフジタにスイミングクラブ創設を打診、快諾を得た。 「フジタの社長に言われました。『田口君、アメリカで育った金メダリストを日本の人たちは喜ばないよ。なぜ留学したいんだ』と」 田口は答えた。 「世界一の指導を受けたい。世界一の施設で練習したい」 すると社長は言った。 「分かった、世界一のコーチを連れて来る。広島に世界一のプールを作ろう」 秘書をアメリカのトップコーチ会議に派遣し、「報酬はいくらでも出す、優秀なコーチに来てほしい」とぶち上げた。若いコーチが山ほど手を挙げた。しかし、 「僕が教えてほしい全米チームのヘッドコーチは無理だった。それで、中学時代の恩師に頼みました」