庭に敵の首を吊るして祝宴。外国語を公用語に採用。ローマに先立つ対照的な二つの世界帝国の興亡!
世界史上で、地中海を大きく取り囲んで統合したのはローマ帝国だけだが、ローマ以前にも「帝国」と呼ばれる国はいくつかある。なかでも史上初の「世界帝国」とされるアッシリアと、その後のオリエントを治めたペルシア帝国は重要だ。注目の新シリーズ「地中海世界の歴史」(本村凌二著、講談社選書メチエ)の第2巻『沈黙する神々の帝国』は、この二つの帝国の性格を対照的に描き出している。 【写真】アッシリアとペルシア
残酷、無慈悲なアッシリア
アッシリアとペルシア。といっても、高校の世界史の授業以来で、具体的に何も思い出せない――。いったい、どっちが先だっけ? という人も多いだろう。 「地中海世界の歴史」の第2巻、『沈黙する神々の帝国』では、アッシリア帝国を「強圧の帝国」、その後に登場したアケメネス朝のペルシア帝国を「寛容の帝国」として、人類史におけるその意味を考察している。 ロンドンの大英博物館に「アッシリア回廊」とよばれる一角がある。アッシリアの王宮の壁面を飾った石板のレリーフを数多く展示したスペースだ。そこに描かれた戦闘場面や王宮での日常生活などの豪華絢爛さと力強さには誰もが圧倒されるが、そのなかに、豊かな庭園で開かれた異様な宴のさまを描いたものがある。 ナツメヤシと糸杉状の樹木にかこまれ、アッシリア王アッシュルバニパルが后とともにくつろいでいる。二人は杯をあげ、その背後に侍者たちがひかえている。だが、目をこらせば、これら侍者たちの間にある糸杉の枝に人間の首が吊るされているのである。 この無惨な姿をさらした首の人物は、それまでアッシリアの南東にあって領土を脅かしてきたエラム国の王テウマンである。アッシュルバニパルはようやくエラム軍を追い詰め、テウマンとその息子を討ち取ったのだ。これはその戦勝祝賀の宴なのである。紀元前653年のことだった。 〈アッシリア回廊の浮き彫りをながめると、つぎつぎと戦争をくりかえすアッシリア人の姿が浮かんでくる。そこから、アッシリア人は好戦的で残酷な人々だったという印象が生まれる。(中略)都市という都市、集落という集落をことごとく破壊する。住民を大量虐殺して、物資財貨を略奪して荒らしまわる。(中略)捕虜たちは首に縄をつけられ、手を後ろでくくられ、唇に紐ひもを通してつながれ、奴隷としてこきつかわれる運命にあった。その哀れな救いのない姿は勝ちほこるアッシリア人の残忍さ、無慈悲を刻みこませるのである。〉〈『沈黙する神々の帝国』p.77) アッシリアはもともとティグリス川中流域の都市国家アッシュルを拠点としていた。前3千年紀中頃から人々が居住し、交易の中継地として栄えていた。前2千年紀には、バビロニア王国、ミタンニ王国などの圧力をこうむりながらも、かろうじて命脈を保っていた。 近隣を強国に囲まれていたせいで、軍事力の強化が進み、軍国主義に傾いていく。 〈ある勢力が急成長をなしとげるには、その背後になんらかの技術革新がひそんでいる。アッシリアの場合、騎馬遊牧民とふれあう位置にあったことは心にとめておくべきだろう。だからといって、アッシリアが神出鬼没の騎馬遊牧民にやられっぱなしだったわけではない。騎馬遊牧民の脅威にさらされればさらされるほど、アッシリア人も馬と騎乗についての知識と経験を得ていったにちがいない。(中略)アッシリアはオリエントのなかでもかなり北に位置していたので、北方にいた騎馬遊牧民と一足早く接触していたのだ。〉(『沈黙する神々の帝国』p.83)