【9番街レトロ・京極風斗】「私事ではございますが、Xをやめました。」
神保町よしもと漫才劇場を拠点に活動している芸人「9番街レトロ」の京極風斗(きょうごく・かざと)さんは、極端なほどに“0か100か”で生きている。「文字で伝えること」が好きだと語る京極さんですが、先日Xのアカウントを閉鎖。感情のままに綴られた言葉で溢れるSNSを離れ、改めて“手書きの文字”だけが持つ良さを一緒に感じてみませんか? 【9番街レトロ・京極風斗】令和の今こそ手紙で伝えよう。
9番街レトロ・京極風斗
連載【0か100かで生きてゆく #60】 ー 今こそ手紙で伝えよう。 ー
Illustration: Kazato Kyogoku
デリートできない想い
私事ではございますが、Xをやめました。 色々あっての決断ですが、理由を掘り下げるには余りにも私事ですので、興味がある方は各々で調べて頂きたいと存じます。 やめたものの、Xのことは好きでした。 「Xが」と言うよりは、「文字で伝えること」が好きなのだと思います。 故にこちらの連載を持たせて頂いていることも、ありがたい限りでございまして。 僕は漫才師なので、言葉で伝える仕事ではあるのですが、実は文字で伝える方が得意なタイプです。 それは「否が応にも自分の発言を客観視させられる」からなんだと考えております。 どうしたって言葉には感情が乗るもので、「感情が乗りすぎたな」と反省する頃にはもう遅くて。 その点、文字は相手に届くまでに何度も引き返すチャンスがあります。 足し算と引き算を繰り返して組み上がった自分の意見は、簡潔で美しいなと感じるわけです。 あと、僕は声が低いので、気を抜くと相手の耳がキャッチしてくれない周波数で喋ってしまいますし、滑舌だったり、同音異義語だったり、方言の問題なんかも、文字ならほとんど解決します。 受け手が、受け手にとって都合のいい音で再生してくれるのも文字のいいところですよね。 人に何かを口で伝える時、声質や声のトーンが大事なように、文字にも入ってきやすい音があります。 俳句とか、短歌なんかが、良い例です。 五七五の音は読んでも喋っても気持ち良いようにできてます。上の文は五七六なんですけどね。 この『文章の音感』を僕は大事にしています。 僕はこの『文章の音感』を大事にしています。 ふたつ目の書きかたの方が読みやすくないですか? 『 』で括った部分は無意識に強く読んでると思うんです。せっかく強く読んで印象付いたのに、そのあとに「僕は」という別の情報が入ってくることでその印象にノイズが入った気がしないですか? いや、しないならいいんですけど。 さらに。 【ふたつ目の書きかたの方が読みやすくないですか?】 という一文。 「書き方」という表記にしてしまうと、「書き方の方が」となり、読みの違う【方】が近くに存在しているキモさがありますよね。 いや、キモくないならいいんですけど。 そして、ここまでの”括弧”の使い方にも注目してみてください。 そうなんです。結構考えてるんです。 全て僕だけの感覚かもしれませんが。 とにかくこれらは、日本語の文章として「正しい」ことよりもよっぽど大事なことだと思っています。 令和6年現在、スマホを持っている人間のほとんどがSNSを活用しています。 僕はSNSが浸透しきったこの時代だからこそ、改めて「手紙」の価値が上がっているのではと考えております。 少なくとも僕はそうなんですが、皆様におかれましても、デジタルの文章に食傷気味ではありませんか? 手紙は、先程述べた「読み手への気遣い」に、「手書きの文字」という大きな真心が加わります。 手紙にデリートキーはありませんので、間違えた時は消しゴムで擦ったり、丸ごと書き直したりしてるわけです。 筆圧だったり、一度濡れて乾いた部分だったりに、したためているときの情景がカケラとして残っているわけです。 そもそも伝達の媒体として手紙をチョイスする部分に人柄が表れており、封を切る前から伝わる温もりがあるわけです。 時に手紙は、口頭で伝える想いを超えるわけです。 どうですか。 心の底から。本当に。絶対に。かなり。伝えたいことは、あえて「手紙」で伝えてみるのは有効な手段だと思いますよ。 早いもので10年も芸人をやっていますが、頂いた手紙は一通残らずウチの宝箱に保管しています。 大きな壁にぶつかった時、皆さんの手紙がその壁を壊すハンマーになるように。 道具は多いに越したことはないですから、これからもハンマーの差し入れをお待ちしております。