娘の夫を虜にした悪女・藤原薬子は果たして黒幕だったのか? 「薬子の変」の真相とは?
「薬子の変」とは平安時代初期に起こった事件で、故桓武天皇皇子である平城上皇と嵯峨天皇が対立がもとで起きたものである。かつては藤原薬子らが中心となって乱を起こしたものと考えられていたことからこの呼称が一般的であったが、実際はそうではなかったようだ。 従来説:遷都と反遷都について天皇の反乱名を避けた 新説:律令制下の二朝廷で争われたため「平城太政天皇の変」と呼ぶ ■藤原薬子と仲成は二所朝廷と呼ばれる上皇の復位を画策 延暦25年(806)に桓武が崩御すると、子の安殿(あて)皇太子が即位する。平城である。平城は、皇太子時代に藤原薬子(くすこ)の娘と結婚していたが、いつしか薬子は安殿と関係が生じ、これをきらった桓武によって薬子は追放されていた。しかし、平城が即位すると薬子は尚侍(ないし)として権力をふるうようになっていた。 大同4年(809)4月、平城は発病し、薬子とその兄の藤原仲成(なかなり)の反対を押し切って弟の嵯峨に譲位し、12月に上皇となった平城は平城京へ移ってしまう。 ここから、天皇の嵯峨は平安京、上皇の平城は平城京というように、対立が起こり、二所朝廷といわれる。藤原薬子と兄の仲成は上皇の復位を画策し、嵯峨は上皇側の動きを封じるために大同5年、蔵人所(くろうどどころ)を設置し、蔵人頭に藤原冬嗣と巨勢野足(こせののたり)を任命した。 同年9月6日、上皇は平城京への遷都の詔をしたが、嵯峨はこれを拒否し、平安京にいた藤原仲成を右兵衛府に監禁して佐渡権守に左遷した。嵯峨の動きに対して、上皇は東国に赴き挙兵しようとして、薬子とともに出発した。嵯峨は、坂上田村麻呂に上皇の東国行きを阻止するように命じ、仲成は射殺された。 上皇方は大和国添上郡まできたが、この先の進行を無理と判断しここからひき返し、平城京にもどり上皇は出家し薬子は毒を飲んで自殺して果てた。その結果、二所朝廷という状態は解消され、嵯峨の権力が確立された。それと同時に藤原氏北家の冬嗣が嵯峨の信頼を得て、北家台頭の基を築いたこともみのがせない。 この事件は、「薬子の変」といわれるのが一般的である。しかし、近年では、律令制下において、上皇も一定の権力をもっていたことが明らかになったことから「平城太上天皇の変」ともよばれるようになった。 また、この事件では、「変」という表現を用い、「乱」といういい方はされていない。変と乱の使いわけには、いくつか説があり、見解がわかれるところであるが、一般的には天皇や朝廷に対して企てた事件が乱とよばれているとみてよいであろう。 したがって、この事件のように上皇が天皇に対して事件を引き起こして敗れたので乱とはみないということになる。672年に起きた大海人皇子が時の政権担当者であった大友皇子に対して挙兵し、このときは勝利したので「壬申の乱」といわれている。 ちなみに承久3年(1221)に鳥羽上皇ら3上皇が鎌倉幕府の執権であった北条義時に対して追討の院宣を出して配流された事件は「承久の乱」とよばれている。歴史は勝者の歴史である、ということはよくいわれることであるが、引き起こした事件に勝利するか敗北するかもきわめて重要になってくる。 監修・文/瀧音能之 歴史人2022年11月号「日本史の新常識100」より
歴史人編集部