原因不明“声の病”で歌手断念 元人気アイドルが約30年ぶりのステージに「あの頃がよみがえりました」
52歳になった仁藤優子は結婚、出産を経て、現在は1児の母
1987年、デビューシングル『おこりんぼの人魚』で日本歌謡大賞・新人賞を受賞した元アイドル歌手の仁藤優子。酒井法子、工藤静香、森高千里、立花理佐らと同期で、大手芸能事務所・ホリプロ一押しだった。だが、原因が分からない「声の病」を患って俳優に専念。その後、結婚、出産を経て、現在は1児の母としてマイペースで活動を続けている。そして、今年1月には、歌を諦めて以来初となるステージに立った。そこで見たものとは……。仁藤がデビューから36年を振り返った。(構成=福嶋剛) 【写真】「懐かしい!」「うお、かわいい」、元人気アイドル時代の写真 私が生まれ育ったのは千葉市の田舎です。両親は商店街で日用品の卸問屋をやっていて、幼い頃は段ボールが積まれている倉庫で兄とよく遊んでいました。学校ではおとなしい生徒でしたが、家では大好きだったピンク・レディーさんや松田聖子さんの歌まねをしていました。寝る前には父のいた事務所に寄って、都はるみさんの『北の宿から』や石川さゆりさんの『津軽海峡・冬景色』などを歌ってあげていました。 そして、アイドルになりたくなって、「ホリプロタレントスカウトキャラバン」を2回受けました。1回目は中学1年の時でした。母に「あんたなんか無理よ」って言われましたけど、書類を出す前には応援してくれて「一番良く撮れているのはどれかしら?」とニコニコしながら写真を選んでくれました。結局、「まだ小さいから」と言われ、2次審査で落ちましたが、ホリプロの方に紹介してもらい、1年間、歌のレッスンを受けました。そして、中学2年で再挑戦。大好きな中森明菜さんの『少女A』を歌い、先輩の井森美幸さんでも有名になったレオタード姿でエアロビクスを踊る審査も受けました。最終選考は中学3年の時、でアクトレス賞をいただきました。みんなが喜んでくれて、千葉のホテルで商店街や問屋仲間の方々に祝勝会を開いてもらいました。 高校は堀越学園に通い、その年の6月に『おこりんぼの人魚』で歌手デビューしました。最初にまだタイトルが付いていないデモテープを渡されて、「これが私の歌だ」と感激したのを覚えています。レコーディングでは、ディレクターさんから「とにかく音程を外さないように音をずっと伸ばしてね」と言われて、必死に声を出していました。 うれしかったのは、ディレクターさんから「仁藤さんの歌声は曲に負けないくらい大きくてすごく良い」と褒めていただいたことです。自信につながりました。今聴くと結構、高い声が出ていたんですね(笑)。 当時は毎日忙しかったですけど、ピンク・レディーさんみたいに寝られないくらいではなかったです。それでも休みは2か月に1日。デビューしたばかりなのに事務所さん、レコード会社さんのおかげで、全国キャンペーンではどの会場もたくさんの人が見にきてくれました。ハプニングもありました。握手会で突然キスをされそうになったり、男の人から「別にあんたのファンじゃないけどね」と言われたり。私は腹を立ててしまい、「ファンじゃなかったら来なくてもいいよ」って言っちゃったんです。終わった後、親衛隊の女の子からは「優ちゃん、本心で思っていても、ああいう悪い言葉は絶対に言っちゃダメよ」と注意されました(笑)。 歌番組の思い出もたくさんあります。中でも『ザ・ベストテン』(TBS系)に初めて出演した時は忘れられません。新人枠の「今週のスポットライト」に出演したのですが、いつもテレビで見ていた豪華な出演者ばかりで驚きました。近藤真彦さん、少年隊さん、本田美奈子さん、荻野目洋子さん、とんねるずさん、憧れの中森明菜さんにも遭遇しました。緊張しすぎて歌い終わった後、どこに座ったのかさえ覚えてないんです。でも、その時の台本は今も大切に持っています。 毎月のように水着の撮影もしていて、『芸能人水泳大会』にも出場しました。私は全く泳げなかったのでプールを歩くだけでしたけど(笑)。当時、「仁藤優子が水着拒否宣言をした」ということもどこかに書いてありましたけど、「いつそんな宣言をしたかな?」という感じです。他にも過去のYouTubeを見て、「ああ、そうなんだ」って思い出すことも多いですね。 デビュー年の11月には、日本歌謡大賞の放送音楽新人賞をいただきました。うれしかったですが、その頃には声が出にくい状態になっていました。せっかくの賞をいただいたのにまともに歌えない悔しい思いをしました。