ドイツには「蛾」がいない?...私たちの「心」すら変えてしまう「言葉の力」とは
<ドイツ人の友人が「蝶々よ」と言っていたのは、なんと「蛾」だった...。私たちの思考や判断は「言葉」に左右されている>
1970年代にドイツの友人の家に遊びに行ったときのこと。リビングでおしゃべりしていると、黄土色の大きな蛾が飛び込んできた。思わず顔をしかめたわたしのそばで、なんと友人は大喜びで自分の娘を呼んだのだ。 【動画】世界で最も美しい蛾「アクチアス・ドゥベルナルディ」(中国のツガ科) 「ねえ、来てごらん! シュメッタリング(Schmeterling/蝶々)よ」 「これは蝶々じゃないわよ。きれいじゃないもの」と、びっくりしてわたしが言うと、友人は「あら」と言って続けた。「これはね、あんまりきれいじゃないほうの蝶々なの」 その時はじめてわたしは、ドイツ語では蝶と蛾の区別がなく、彼らがその両方とも蝶々と呼ぶことを知ったのである。母娘に笑顔で迎えられた「あんまりきれいじゃないほう」は、心なしか堂々として見えたのを覚えている。 これはドイツだけなのかと思ったら、フランスでも同じだという。フランス語の「papillion(パピヨン)」も蝶と蛾の両方を意味する。あるものをあらわすのに言葉がないということは、その対象に対する関心のなさと関係がある。『昆虫記』で有名なファーブルがフランスの人だと思うと、いささか意外な気がしないでもないが。 ただ、セミだけは別で、南仏のリゾート地プロヴァンスではシンボルマークになっている。フランスではセミは南部にしかいないため、夏のバカンスのイメージも手伝って人気があるらしい。 いっぽう日本では源氏物語に「空蝉」「蛍」「蜻蛉」「胡蝶」の4帖あることでもわかるように、虫は古くから愛でられていた。日本人は「虫めずる人々」なのである。 わたしたちはあらゆる面で言葉に左右されている。言葉のために同じものが全く違ったふうに感じられることもあるくらいだ。 言葉はわたしたちの味覚をも支配している。小説家でコラムニストのブルボン小林氏はかつて次のようにエッセイに綴っている。 「子どものころ、気の抜けたコーラと言われて渡されたのが麦茶だったことがある。「うぇっ」と驚き、飲むのをやめてコップを眺めた(......)普段、麦茶を不味いと感じるわけではないのに、そのときだけ「うぇっ」と思ったのは事前にコーラという「言葉」を与えられていたからだ」(朝日新聞、2013年11月13日) また、もらったオレンジジュースがなんだか不味いなと思いながら飲んでいたが、あるときパッケージをよくみたら、オレンジジュースではなくて「温州みかんジュース」だったと知って驚いたという。だが、その後さらに驚いたことには、「ずっと不味いと思って飲んでいたジュースが、今度は美味しかったのだ!」(同上)、と。 言語学者鈴木孝夫氏が「世界の断片を私たちがものとか性質として認識できるのは、ことばによってであり、ことばがなければ、犬も猫も区別できないはず」(『ことばと文化』岩波新書)と指摘するように、わたしたちは何を見るにもまず言葉の助けを必要とする。 いつだったか図鑑で調べ物をしていたときのこと。かつて見たこともない蝶のようなものが載っていた。 今思えば白くてとてもきれいだったのだが、そのときわたしの頭に真っ先に浮かんだ言葉は、「うわあ、きれい」ではなく、「これは蝶々? それとも蛾?」であった。 つまり、なによりもまず、これが蛾なのか蝶々なのかを知ろうとしたのである。そしてそれが蛾だとわかったとき、「なんだ、蛾か...」と興味を失ってしまったのだった。 興味を持たせることも失わせることもできる。そして味すら変えてしまう...。言葉の力はかくも大きいということだ。
平野卿子(ドイツ語翻訳家)