ビル・ゲイツも驚嘆の体内に寄生した8.8mのサナダムシ!「目黒寄生虫館」寄生虫の実態と撲滅の歴史
人や動物の体に取りつき、体内に宿る寄生虫。戦後間もない1950年代には、日本人のおよそ7割が寄生虫に悩まされ、命を落とす人も少なくなかった。 衝撃……「サナダムシTシャツ」を手に持つビル・ゲイツ氏 そんな寄生虫について、研究・教育・啓発を推進している場所がある。目黒駅から徒歩で12分ほどの場所にある「目黒寄生虫館」だ。ビルの1階と2階を博物館展示室として無料開放し、約300点の液浸標本や関連資料を展示。なんとあのビル・ゲイツも啓発活動に共感し、自ら足を運んでいる。 今回は、われわれの身近に存在する「寄生虫」にスポットを当て、寄生虫が及ぼす被害・日本人が寄生虫を制圧するために戦った歴史について取材。普段あまり知ることがない、寄生虫の姿に迫っていく(以下、カッコ内は館長・倉持利明さんの発言)。 ◆戦後は衛生レベルが低下、寄生虫被害が拡大した 「目黒寄生虫館」は寄生虫を専門に扱う研究博物館として、医師で医学博士の亀谷了(かめがい さとる)により1953年に設立された。人々が寄生虫に悩まされていた、終戦後間もない時代に、感染症対策、公衆衛生、予防などの教育と啓発を目的に作られ、2023年で創立70周年を迎えている。1階は寄生虫の多様性に触れ、寄生虫の液浸標本を見ることができ、2階では寄生虫の資料や歴史を知ることができる。 「設立当時は戦争により世の中が乱れ、誰しも生きるのに精一杯の時代。衛生レベルは戦前よりもさらに落ち、土壌を媒介とする寄生虫や蚊が媒介するマラリアなど、被害は大きくなる一方でした。 その後、治療や薬による処方が続けられましたが、人々の意識が変わらないことには悪循環は断ち切れません。野菜はきれいな水で洗う、手をしっかり洗うという基本的なところから、教育と啓発を続けてきました」(館長・倉持利明さん) 現在、人につく寄生虫は世界で約200種類、日本では約100種類記録されている。体内で悪さをするものを寄生虫とイメージするかもしれないが、ダニやノミといった体表につく虫も寄生虫に含まれる。 し尿を肥料に使っていた時代ということもあり、戦前から終戦後しばらくの間には汚染された土壌を介して寄生する土壌媒介寄生虫が主に流行。汚染した農地での農作業、汚染した農作物や水、子供の泥遊びなどをきっかけに感染が成立した。 多数寄生もまれではなく、脳に寄生虫が侵入して命を落とすこともあったという。 ◆ジビエ料理に注意、神経症状やアナフィラキシーショックも 寄生虫の感染経路には、生の食品摂取もがあるが、厄介なのが 「人間以外の動物の寄生虫が人間に入ってきてしまうケース」だという。寄生虫の成虫が寄生する動物を「終宿主」、寄生虫の幼虫が発育場所として寄生する動物を「中間宿主」と呼ぶ。日本でも有名なアニサキスの終宿主はクジラだが、魚介類の生食により人間が生きたアニサキスの幼虫を飲み込んでしまうことでアレルギー反応が起こる。これがアニサキス症である。クジラではこのような反応は全く起きない。 人間が人間以外の動物の寄生虫の幼虫や卵を飲み込んだ場合、幼虫が本来の寄生場所とは異なる臓器・組織に侵入したり、人間が中間宿主のようになってしまい、あらゆる臓器に幼虫が入り込んだりしたときに重篤な病気にかかる。侵入の場所が神経系ならば、てんかん様の発作や昏睡などの神経症状に陥るし、幼虫が全身に飛び散ればアナフィラキシーショックも起こる。 「医学や研究の進歩とともに、手洗いや消毒をする、生ものは加熱・凍結処理するという対策が広まり、寄生虫の被害は少なくなりました。ですが、最近ではジビエ料理に注意が必要です。牛や豚は家畜動物なので人間が飼料を与えますが、ジビエの食材となる野生動物は森の中で何を食べているかわかりません。ジビエに寄生していた虫が体内に入ってしまう可能性もありますから、加熱するか一度冷凍してから食べてください」(同前) ◆山梨の基幹産業であるぶどう栽培も寄生虫制圧がきっかけに 現在では大幅に低下した寄生虫被害だが、それは過去、寄生虫と真っ向から向き合い、制圧のために闘った軌跡があったから。ここからは、2階に展示された資料とともに、寄生虫と日本人との記録と功績を見ていこう。 バンクロフト糸状虫 バンクロフト糸状虫は、世界の温帯から熱帯地域に広く分布し、かつては日本各地で感染がみられた寄生虫だ。蚊を媒介とし、人のリンパ系に寄生しリンパの流れを止めることで、皮膚が肥厚してしまう象皮病や、陰嚢(いんのう)にたまる陰嚢水腫を引き起こしていた。その様子は葛飾北斎の作品に描かれており、リンパ系フィラリア症と呼ばれていた。 日本におけるフィラリア症との闘いは昭和20年代に行われ、アメリカ軍が使っていたDDT(※ジクロロジフェニルトリクロロエタンの略)と、田辺製薬が抗回虫薬として開発したスパトニン(ジエチルカルバマジンクエン酸塩)が使われた。これにより、幼虫を媒介する蚊の撲滅と、患者の治療を目標とした制圧プログラムが実行された。 ※DDT:第二次世界大戦の最中にアメリカ軍で使用された、高い効力を持つ殺虫剤 内服薬で体内の虫を殺す・DDTで蚊を退治する、を繰り返すことで、感染の循環を断ち切る。見事1970年代に制圧が完了し、その後韓国済州島のフィラリア症も、日韓共同のプロジェクトで制圧したのだった。 日本住血吸虫 日本住血吸虫症は、日本の限られた地域に風土病として流行していた病気である。原因は1904年に山梨県の猫の体内から見つかった寄生虫で、寄生すると人の腸壁や肝臓などの血管内で生み出された卵が血管を詰まらせる。やがて発育不足・成長不良を引き起こし、やせ細った末に命を落としてしまう。 治療は二十数回もの静脈注射を必要とする困難な治療で、薬の副作用も大きかった。日本住血吸虫を媒介する巻貝、ミヤイリガイを撲滅するために田んぼや川に薬が散布されたが、有害性が問題視され思うように進まなかったという。 しかし、1936年。生物学者の岩田正俊氏により、水路のコンクリート化が提案される。水の流れを早くし、ミヤイリガイの繁殖を防ぐことが目的だった。 最後まで感染者が残っていた山梨県では、ミヤイリガイ制圧のための土地改良がおこなわれ、それまであった水田が桃やブドウの果樹園へ転換された。今や山梨の基幹産業となったブドウ畑は、産学官民と寄生虫の闘いにより成し遂げられた功績でもあった。山梨県に「終息宣言」が発表されたのは、つい最近の1996年のことであった。 戦後に行われた集団検診、各機関の啓発・研究活動により、寄生虫被害は格段に少なくなった。一方で、寄生虫が体内に侵入した際、人によって表れる症状に違いがあるという説もあり、現在でも議論・研究が進んでいる。 寄生虫の生態に興味がある人も、日本のために闘った先人の偉業に胸を熱くしたい人も、ぜひ立ち寄ってみてはいかがだろうか。 取材・文:FM中西
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