米兵の猛攻を食い止めた狙撃手の妻は「後を追いたい」と泣き崩れた
「ありったけの地獄を集めた」と形容される沖縄戦。日本軍は、圧倒的に上回る兵員数や物量をもって米軍からの猛攻を受け窮地に立たされていた。 【写真を見る】米軍をパニック状態に追い込んだ「凄腕のスナイパー」 〈実際の写真〉
第24師団歩兵第32連隊・第1大隊を率いた伊東孝一大隊長らが潜伏していた洞窟にも米海兵隊の精強部隊が肉薄するなか、日本軍陣地から一人の兵士が躍り出て、前進してくる米兵を狙い撃ち始める。次から次へと倒れる米海兵隊員。この「凄腕のスナイパー」によって、破竹の進撃が食い止められたのだった。 「誰か何とかしろ!」。パニック状態に陥った米兵たちは、狙撃手が逃げ込んだ陣地壕の出入り口に火炎放射、さらには監視哨(しょう)に続く天井の空気穴から爆雷を投げ込む。 激しい爆発音が轟いたのち、すでに事切れた兵士の姿がみとめられた。眼鏡は吹き飛び、顔はすすで真っ黒だ。そして、その手にはまだ銃身が冷め切っていない、ボルトアクション式の99式小銃がしっかりと握りしめられていた――。 ※本記事は、浜田哲二氏、浜田律子氏による初著書『ずっと、ずっと帰りを待っていました 「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡』より一部を抜粋・再編集し、第3回にわたってお届けする。【本記事は全3回の第2回です】
「凄腕のスナイパー」の正体は…
記録によると、北海道出身の松倉秀郎上等兵は、沖縄戦の終結が近い6月16日もしくは17日に、現在の糸満市国吉で戦死したとされている。 ところが終戦後、伊東孝一大隊長が私家版の戦記を書くために米軍側の資料や書籍を繙くうち、驚くべき事実が浮かび上がってきた。 米軍が国吉台の陣地を完全に破壊、掌握できないまま島の南部へ転戦していったのは、この丘を守備していた伊東大隊を始めとする日本軍の激しい抵抗に手を焼いたからだった。 さらに、たったひとりの日本兵に、多数の海兵隊員らが狙い撃たれたことも記されている。
「その狙撃兵こそ、松倉だったのだろう」と、伊東は確信している。大隊本部壕の入り口で戦死した松倉上等兵を看取った、国島伍長の証言も重ね合わせたうえでの判断だった。 終戦の翌年、沖縄の収容所での抑留生活を終え内地へ復員するとすぐに部下の遺族へ「詫び状」を出す仕事に取り掛かった伊東大隊長。手紙は松倉秀郎上等兵の家族のもとにも届き、妻・ひでさんが伊東に宛てて返信を書いている。 以下、妻・ひでさんからの手紙(1946年6月25日)の内容を紹介する。 ***