100円で買った炭鉱で石炭成金 どん底から何度も這い上がる 貝島太助(上)
太助の後半生を変える予感、井上馨との出会い
1889(明治22)年、太助は多額の借金を抱えていたが、あえて豪邸の建築に着手する。5万坪の土地に3階建て700坪の邸宅、門には「百合野山荘」というバカでかい表札を掲げた。 「雲をついてそびゆる大廈(たいか、豪壮な家)」と表現した資料もあるほど。この大見栄を張った邸宅が意外な幸運を呼び込むから人生は分からない。 1890(翌23)年、政界の大物井上馨伯(のちに侯爵)が耶馬溪の名勝を探策し、太宰府に参拝に赴く途中、直方を通り過ぎようとして、太助の豪邸が目に入る。あまりの大楼に驚いた井上は従者にただした。 「こんな田舎で、これほどの豪邸を建てたのは一体、どこのだれだ」 これが貝島と井上馨との初めての出会いで、これから井上の力添えで太助の後半生はにわかに輝きを増していく。=敬称略 【連載】投資家の美学<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)> ■貝島 太助(1844-1916)の横顔 弘化元年福岡県直方市で貧農の家に生まれる。父親は農業のかたわら炭坑夫として働き、太助も8歳から坑内に入り、家計を助けた。1870(明治3)年、26歳のときやっと100円の貯金ができ、念願の鉱山を手にする。やがて西南戦争が勃発、炭価が暴騰する。貝島は昼夜兼行で堀りまくり、2500円の大金を手にする。1884(同17)年、九州随一の大之浦炭坑を入手日清、日露の両戦役で巨利を占め、1914(大正3)年死去。長男太市が跡を継ぐ。