「男系」より「直系」が皇位継承の本質原理だ 社会学的皇室ウォッチング!/111 成城大教授・森暢平
◇これでいいのか「旧宮家養子案」―第13弾― 過去に8人いた女性天皇のうち最後の即位は、江戸中期の後桜町天皇である。彼女は幼少の甥(後桃園天皇)の即位までの「中継ぎ」だと語られることが多い。しかし、彼女が女帝となった経緯をみると興味深いことが分かる。それは、皇位継承原理の本質は実は男系よりも直系が重視されていたことだ。(一部敬称略) 後桜町の弟、桃園天皇は1762(宝暦12)年7月12日午後1時すぎ、21歳の若さで亡くなった。脚気(かっけ)の悪化であり、前日に体調を崩したうえでの急死であった。突然の事態に次の天皇をどうするのか、関白近衛内前(うちさき)ら五摂家当主ら(摂家衆)が密議を行う。天皇家には、桃園の第一皇子、4歳の親王英仁(ひでひと)(のちの後桃園天皇)、そして後桜町天皇となる内親王智子(としこ)(21)がいた。取りうるオプションは三つである。 ①そもそもの継承予定者である英仁が即時、践祚(せんそ)(皇位継承)する ②宮家親王のいずれかが中継ぎとして、践祚する ③智子が中継ぎとして践祚する 結果は③である。しかし、この措置は前例にも伝統にも則(のっと)っていなかった。当時の公家たちにとっても唐突の感は否めなかった。正親町公功(おおぎまちきんかつ)の日記には、桃園天皇の決定(勅定)ならばそうすべきだが、人びとの議論は喧(やかま)しい(衆説、嗷々(ごうごう)たり)とある。実際、桃園天皇には勅定する余裕もなかったようで、摂家衆による決定とみてよいだろう。 一般には、英仁が幼少であったから中継ぎを立てたと言われている。しかし、幼帝の前例はあるし、単に幼少だからというだけでは、当時の宮廷の状況を十分説明していない。 実は、②はありそうにないように思えるが、捨てきれない選択肢だった。なぜなら、1654(承応3)年、後光明天皇が21歳で亡くなり、皇位継承者と目された弟の高貴宮(あてのみや)(のちの霊元天皇)がまだ生後4カ月であったとき、中継ぎとして即位したのは高松宮家を継いでいた親王良仁(ながひと)(後西(ごさい)天皇)だったからである。