葛西紀明【51歳・レジェンドスキージャンパー】スペシャルインタビュー「ほら、まだできるでしょ」
「優勝は自信になります。この歳でスゴいじゃないですか」 無邪気な笑みを浮かべて、こう話すのはスキージャンプのレジェンド・葛西紀明、51歳だ。 【画像】51歳でW杯日本代表となったレジェンド「葛西紀明」 スペシャルインタビュー素顔写真 2月3日に北海道札幌市の大倉山で行われたTVh杯ジャンプ大会で、’22年1月の雪印メグミルク杯以来2年ぶりの優勝。50代での初Vとなり、競技後は「ヨッシャー!」と叫び喜びを爆発させた。2月17日からのワールドカップ(W杯)札幌大会では日本代表に内定しており、自身が持つスキージャンプW杯個人出場ギネス記録569試合の更新に期待がかかる。 誰もが認めるスポーツ界の鉄人だが、ここまでのキャリアを積み重ねるまでには数々の試練があった。葛西本人の言葉で、波乱の半生を振り返りたい――。 ◆「母親を楽にしてあげよう」 スキーが盛んな北海道の下川町で生まれた葛西がジャンプを始めたのは、小学校3年生の時だ。 「地元のスキー場に行った際、友達から飛んでみないかと誘われたんです。すると、フワッと浮き上がる感覚が心地よかった。また飛んでみたいと思いました」 しかし葛西の家庭は、父親が病気がちで毎日の食事にも困るほど貧しかった。高額なスキー用品を買えず、少年チームの先輩のお下がりを使用。遠征での食費が捻出できないため、近隣住民や親戚からお米を借りることもあったという。 「母親は生活費を切り詰め、働きながら家庭を支えてくれたんです。いつか五輪に出て金メダルを獲り、母親を楽にしてあげよう。そうした願いが、ジャンプを続ける僕の原動力になりました」 東海大四高(現・東海大札幌高)を卒業した葛西は、北海道の名門・地崎工業(現・岩田地崎建設)に入社する。 「地崎工業では血ヘドを吐くようなトレーニングをしました。コーチが鬼でね。合宿では5分以内に走らなければならない1500m走や、100㎏の重りを持ったスクワットなど朝から晩まで練習漬け。毎日クタクタでしたが、おかげで『足の裏にバネがついた』ような、ジャンパーとして特別な感覚が身につきました」 国内外での大会で実績を積んだ葛西は、’92年のアルベールビル、’94年のリレハンメルと五輪に出場し続ける。こだわったのは、あくまで金メダルだった。 「5歳年下の妹が、再生不良性貧血という難病に苦しめられていたんです。僕は、金メダルを獲って妹を喜ばすことが最高の治療と考えていた。取材では『金メダルをすり潰(つぶ)して飲ませたら治るんじゃないか』と、熱っぽく話していました」 さらなる悲劇が葛西家を襲う。’98年の長野五輪前に、自宅が大火事に遭い母親が全身火傷の重傷を負ったのだ。治療の甲斐なく、母親は48歳の若さで亡くなった。当時スランプにあった葛西へ、母親は病床から手紙を書いている。 「折に触れ手紙を読み返すと、今でも涙が出ます。『つらい時期だと思うけど、これも人生なのです。たくましく這(は)い上がってくる我が子を、お母さんは楽しみに待っています』と、瀕死(ひんし)の状態にありながら僕を励ましてくれた……」 それでも勝利の女神は、葛西に微笑んでくれない。直前のケガも影響し、長野五輪団体のメンバーから外されてしまったのだ。皮肉にも、日本は葛西のいない団体で金メダルを獲得する。 「悔しかったですね。日本が金を獲った夜は、涙が止まらず眠れませんでした。当時は『俺が一番だ!』という自負が強く、日本人選手に対してもライバル心をムキ出しにしていましたから……。他の選手が優勝すると腹立たしいので『落ちろ、落ちろ』と念じたこともあります」 長野五輪での悔しさから葛西は、それまで以上にハードな練習に打ち込む。 「人生で最も厳しいトレーニングを積みました。これだけ自分を追い込めば、必ず金メダルが獲れるだろうと」 しかし、’02年のソルトレイクシティ五輪の結果は散々だった。ノーマルヒル個人で49位、ラージヒル個人で41位。金メダルどころか、表彰台にも遠く及ばない成績に終わる。 「『あぁ、このままではダメなんじゃないか』と本気で落ち込みました。今考えればストイック過ぎたのでしょう。悩み苦しむ僕に対し、移籍した『土屋ホーム』の監督は年下のフィンランド人コーチを紹介してくれました。彼の練習法は、僕のスタイルと180度違った。それまでの僕は四六時中ジャンプのことを考え、常にトレーニングしていないと不安で仕方ありませんでした。これでは身体より先に頭が疲れてしまいます」 ◆「限界は感じない」 例えばフライングヒルという種目のジャンプ台の高低差は230mで、東京都庁と同程度だ。失敗すれば大ケガどころか、死の危険すらある。極度の緊張状態におかれ、うまくリフレッシュしないと精神がクタクタになってしまうだろう。 「フィンランド人のコーチからは、競技が終わったらジャンプのことは一切忘れるようアドバイスされました。以前の僕なら『俺のやり方のほうが……』と反発していたでしょう。しかしソルトレイクシティ五輪の惨敗で打ちのめされ、自信がゼロになっていた。フィンランド人コーチの忠告を素直に受け入れジャンプから完全に離れると、頭がシャキッとし気持ちにゆとりが生まれました」 迎えた運命のソチ五輪(’14年)。過去の大会では自身のジャンプだけに集中していたが、ソチでは他の競技を観戦する余裕があった。41歳8ヵ月の葛西は、7度目の五輪出場で初めて個人(ラージヒル)としてのメダルを獲得する。 「銀でした。金でなかった悔しさ半分、メダルを獲った嬉しさ半分です。所属する『土屋ホーム』には『成功への十訓』という社訓があります。その中に『逆境こそ天が自分に与えた最大のチャンス』という言葉がある。この言葉が僕を支えてくれました。ソチ五輪では、逆境を乗り越え涙を流して表彰台に立つ自分を何度もイメージして臨みました。具体的な目標はモチベーションを高めます」 50歳を超えても第一線で活躍できるのは、心技体が充実しているからだろう。 「人によっては、アスリートの限界を40歳前後で感じるといいます。でも僕は今のところ何も感じない。若い頃に比べ練習量は3分の1ほどに減りましたが、身体を徹底的に絞り込んでより遠くへ飛べるようにしています。今年1月だけで150㎞の雪道を走破し、一日のエネルギー摂取量は1500キロカロリーに制限しているんです。体重が1㎏増えると飛距離を2m損するといわれますから」 大ベテランになっても自分のやり方に固執しない。若い選手からも学んでいる。 「最近、結果が出ない時期が続いたので、所属先の愛弟子・伊藤有希(29)の助走を参考にしました。上半身を起こさない姿勢をヒントにすると、力強い踏み切りを取り戻せたんです。(冒頭で紹介した)TVh杯で優勝できたのは、彼女のおかげかもしれない。まだまだ『勝ちたい』という気持ちに変わりはありません。負けて悔しいという思いは、いくつになっても僕の闘争心に火をつけてくれる。これからも成長できるんじゃないかと、ワクワクしているんです」 数々の試練を乗り越えたことで培(つちか)われた、葛西の衰え知らずの競技スタイル。取材の最後に聞いた言葉が心に沁(し)みた。 「ほら、まだできるでしょ」 『FRIDAY』2024年3月1・8日号より
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