受刑者に向き合う「神職教誨師」 塀の中の知られざる心の救済活動とは?
神職らしい教誨 「命とは何か」を主題に
中川さんが教誨師の道を歩み始めたのは40歳のとき。以来26年、刑務所で教誨を行っている。 もともと、鐵砲洲稲荷神社の先代宮司だった中川さんの義父が教誨師を務めており、教誨活動についてはある程度、把握していたそうだ。中川さん自身に、教誨師をしてみないかと声がかかったときには、さほど抵抗もなく受けることを決めたという。 「自分にできることがあるのであればご奉仕させて頂きたいと思ってはじめたのですが、教誨活動を続けるうちに、思っていた以上に深い世界であると思うようになりました。受刑者たちと向き合っているうちに、自分の魂も鍛えられている気がします。自分の心にも反省は多く、学ぶことも多いです」 教誨師をしていて中川さんが思い至ったのは、事件を起こした加害者であっても、角度を変えてみればある意味では被害者であるということ。 「〈罪〉とは、〈包み込んでしまうこと〉ではないかと思うのです。自分が犯した罪はどんな罪だったのか。刑を科せられた罪ももちろん罪だが、それだけではないはず。自分のしたことに正面から向き合うことができず、自分にとって都合の悪いことを他人には語らず心に包み込んでしまっていることそのものが罪ではないか。目に見える罪(量刑)は収監期間で消えますが、目に見えない罪は心の内に潜んでいます。出所後にも残ると思われます。ですから、収容されている今、心の包みを一緒に解放しましょうと受刑者には話します」 薄皮を1枚1枚はがしていくようにその包みをほどいていく行為が、「祈り」なのだと中川さんはいう。受刑者たちの心を包んでいるものを一緒にはがし、宗教心に根ざした人間性の回復を共に目指すことも教誨なのだと。 先代が人としての「使命」に重きを置いた教誨を行ったのに対し、中川さんは「命とは何か」を主題に教誨を行っているという。 「世の中にあるものは全て、目的があって存在します。木でもテーブルでも、意義のないものはひとつもない。では、なぜ私たちはこの世に、何のために生まれてきたのか。それは、その目的を探るために生まれてきたのかもしれない。ならば、一緒にそれを探ってみましょう。人にしかできないことが必ずあります。それが何か一緒に考えましょう」 「人智の及ばないものを司る存在があります。そういう存在に畏敬の念を抱くことができるのは人だけ。そういう存在がどういうものなのか、共に考えましょう」 「出会う全ての人やものが、ご縁で結ばれていると思います。あなたは、選んで日本人として生まれてきましたか。そうではありません。何かしらのご縁で、お父さんとお母さんのもと、ここに生まれてきたはずです。生まれ育った気候風土、言葉……自分を取り巻く全てのご縁についても併せて考えましょう」 「命の根源とは何か。生きているとはどういうことなのか。日本では古来、八百万(やおよろず)の神様がいる、全てのものに神様が宿っていると考えられてきました。そして古代の日本人は、命の根源を太陽に求めました。冷たく見える岩も、水も、全てのものにぬくもりがある。そういう感覚が、日本人のものの考え方の中心にあります。全てのものは生きている、同じ太陽の下、ご縁によって生かされている。そうしたことを考えていくと、命の尊さに気づくのではないでしょうか」 中川さんの話を聞いて、涙を流す受刑者もいるという。教誨を受ける人は、何かしらを求めている人達ばかりだ。日本人の普遍的な価値観が含蓄されている神道的な教誨は、水や空気のように自然な形で心に浸透していくのかもしれない。